ダンシャリアンな私、この年になったらもう必要ない物は買わない。食べるものは食べるけど、
嗜好品はあまり欲することも無い。
食べてみようと思ったりするけど、
予想通りの味にもう良いかと思う方でもある。
本来は素材の味、それをどう生かすだろうけど、素材の味で十分。
人と食事するのは好きなので、人との時間を楽しむけど、そこに有るものは何でも良い (^.^)
餃子とビールだけでも、たこ焼きとビールでも、ファミレスでコーヒーでも
物に執着も無い。
本来命にも執着無い。
シンプルで単純で心が満足する (^.^)
そんなこと話している自分は何か好奇心も何にも興味なくなったわけではない (^^;)
十分まだまだ変で面白い生き物の自分に興味があるのです!!
家の中を断捨離して行って、家族を作って行った中で残っている物もあるけど、必要最低限のような気もする (^^;)
先日話していた、大きな樹を育てて行くのに枝の伐採も必要だという話をしていました。
栄養を取り入れ融合し手放し循環させるという意味でも
自分自身の中も家の中もそうしているなと思いつつも、
まだ何かあったりするか?と問いかける自分がまだ残っていたりもする。
物質に対しては何も無いけど、
「ほんと無いかな?」と問いの中で、
物質の中で考えながら意識の残像を見るのにはその中に意識が残っていたりするんだろうなと。
欲しいものはないのか、無いものはないのか、残っている物の残っている意識とか、何故残しているのか、捨てる意図など、色んな問いを自分に向ける。
暇だからかも知れないけどね、きっと意味がある (^^;)
断捨離の番組を観ていても、やっぱり意味の中にその人の隠された、または溜まって出せない意識や感情が潜んでいるのが浮かび出てくる。
手離す事で感情も手放したくなるという。
人の感情をほじくる趣味は無いけど、
自分の中はほじくってしまっているかも (^^;)
手離す「行為」に向き合う事で手放したい感情に気づくという。
物を溜める人や、買い物をして自分の傍に置いておきたい人は、それでどこか寂しい心を埋めたいと思うんでしょう。
「行為」自体に意味を持つ。
心が寂しいのを物で埋めて満足させたいという。
自分のまわりに物が溢れて囲まれているだけでも包まれている気分に勘違いしているのかも知れない。
景色が同化しているというのは自分の意識も身の周りと同化している。
だから物を捨てることが出来ない、
自分の傍から離れて行くと寂しくなる、
孤独を感じる。
寂しさや孤独と一言で言っても本質を悟る事は深い。
本来はものが無くなると風通しも良くなるのに、
新しいものも入って来るかも知れないのに。
そんな気持ちもよく分かる。
それぐらい孤独って結構心に影響があったりする。
家には物が無くなっているけど、
次に新たなものが入って来た時に、
またこれもいずれは捨てるのかなと思ってしまったりする時もあるからです。
今度はこれも無くなってしまったらどうしようって、
なんかそんな事を考えてる自分がいたりした。
そんな意識のループは何を表現したいのかと考えたり。
新たな物や出来事や経験や人の出会いでもまた終わりが来るのかなとか。
終わりが来るのが怖くなったり、
だから深く入り込めなかったりする時もあったり。
浅く線引きしようと一線引いている自分がいたり。
多分完璧なんてないのに完璧主義意識が残っていたり、
完璧で終わる事なんてないのに、
くっ付いて離れて、融合して分裂するのに。
孤独なんて怖くないのに、楽しいと怖くなるという。
楽しいだっていつか終わるのにね (^^;)
たとえば昔のドラマであったんですが、寿命宣告された時に孫ができたりして、既に覚悟しているのに孫の続きを考えるとふと寂しくなったりする時の感情と似ていたり。
自分の魂が広がるというのに孤独の個に戻りたくなるという。
広がりをいずれは求めて大きく成長していくのに、求めると怖くなる。
それではまた我に戻ってしまう。
もっと孤独で、堂々として、凛として。
そんな自分を観てみたいなとふと感じたりした (-_-)
全く違う出来事を考えてたのに、こんな事を考えてしまった私なんですけどね
ホント可笑しな私 笑笑 (;'∀')