お盆にはお盆の意識になると話していますが、
ご先祖さんをお祀りしてお墓参りへ行って、ご先祖さんの事に思いを馳せて感謝して……って一般的な慣習ではそんな感じ。
それも良い事ですが、意識をするという事をもっと濃く……という事でしょう。
現に、こんな慣習だと言ってもお墓が無い人もいるし、お祀りする仏壇が無い人も。
長男だから持っているのか、長男の勤めなのか?
そうだとしたら不公平な慣習ですね、
だから遺産争いなどにも繋がっていたのか。
次男はどうなのか、嫁に行くとどうなのか。
そんな人はそれをしないと罰が当たるのでしょうか、不幸になるのでしょうか、親やご先祖さん孝行が出来ていないとなるのか。
今目の前で子供や孫たちがお墓参りしたり仏壇の前でお祀りしている姿を見ると親は安心するんでしょうね、
自分たちが死んだらちゃんと供養してくれて自分たちは成仏するんだなと。
でも心配ないです、死んだら、というより死ぬ寸前と瞬間にはすべて解明しますから。
魂と霊体の意識は全て分かっていますから。
先日亡くなった友達の旦那さん、年末には私にも挨拶しに来てくれて、死ぬ二日前にはみんな集まってくれと招集かけたみたいです。
家族は不思議だねと分かってたのかなとか言いますが、そう解っていたんです。
やっと肉体の心と魂の意識の覚悟が一致しただけです。
死ぬ瞬間に死後の世界が無い事にも気づく。
死後の世界は生きている間に自分が創る感情や念の世界。
想念の世界。
その覚悟ができるまでにいろんなヒントがやってきているだけ (^.^)
では、秋川雅史のあの全国的に新たな意識を投じた歌を聴いてどう感じるのでしょう!!
私はそれまでにお墓には何もない、
もしくは、成仏していないこの世に置き去りにした念の意識ぐらいが集まっているという考えに至り、
子供たちとお墓参りに行った時には、ご先祖さんがいないと今の自分たちは生まれていないから今の自分たちが楽しく遊んで勉強して美味しいものを食べれるのもありがたい感謝ですと伝えて、「こんな事があったよ有難う」と報告しとこねと話していました。
そんな時に出た歌「千の風になって」でした!!
すんなり「やっぱりそうなんだぁ」良かったと思いました。
自分の考えに共感するものがあって確認できたと思った。
まあ歌詞としては、どうか悲しまないでねといつでも私はあなたの心にいるし見守ってるよという思いだったんでしょうが (^^;)
そしていつでも全ての光(風や雪や星)に存在しているよという意味だったんかな。
この曲が出て来た時には世間でも「お墓には誰もいません」なんて冗談の様に言ったり、ホントにいるわけないよねと思ったりしてたけど、やっぱりそんな人でもお葬式はするべき、お墓は立ててお参りするべき、盆には帰ってくるからお祀りするべき……という慣習に縛られて
なんでも昔の概念の「~べき」から意識が解放されることは無い。
解放するまでには確認しながら試していくと良いけど、それまでに罰があったらどうしようとか、何かあると祟りじゃないかと
「~べき」から離れるにはそれまでにいろんな体験をもって普段から先に自分の奥底にある不安や怖れの意識を取り除いていかないと、
この観えない世界からの恐怖感には太刀打ちできないのでしょう。
私も「千の風になって」の歌を聴いてすぐに確信したわけでもない、
それまでにも何度も自分の心と向き合ったわけです。
なので、子供たちにそうやって教えたり伝えたりしてるけど、子供たちがすぐにその価値観に賛成共感するとは限りません。
先ずは大きくなって大人になって、母親はこんな考えだったけど、それでいいのかという疑問や違和感を抱けばいいと思っている。
自分達がうまくいかない時にそれは母親がそんな考えだったら罰があったのかとか思うかも知れない、それも良いだろう。
その時に確認作業があって確認体験をして自分の考えを持てばいいと思っている。
私が親としてとか、母としての意見は言うけど、先ずは考えて欲しいと願う。
親の威厳で価値観の押し付けはするつもりはない。
それもまた間違いかも知れないけど、
それじゃお盆にご先祖様に宣言しておこうじゃないですか (^.^)
それでもこんな考えに至り、考えさせてもらえた事とそんな課題を頂いた事にはとても感謝しております。
そんな風に生きてますよ~って宣言したい (^O^)/
風にも雲にも星にも光にも伝わってると思う !(^^)!
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