昨日の最後に書いていた事で、
平穏、平凡に小さな幸せを感じて生きる事で良い人生だと思う人も多いと思うのだけど、
人生死ぬまでが人生で、
本来信じていない事かもしれないけど、
死んでからも魂は続くので魂の事も考えなければ人生は終わらないのだと私は思っていて、
この世界観もそれぞれで良いとは思うんだけど、
昨日も話した通り、ひとつの世界観簡潔で答えは出せないのだと。
じゃあ何で人類は生まれてきたのだ?
人類はどうやって何からできているのだ?
じゃあなんで生きているのだ?
などときっと深堀する事が出てくるんですよね (*^^*)
そして平凡平穏の中にも「有難い」事を見つけ、というけれど。
その反対側にある「当たり前」の中にも平穏や幸せを見つけて、それを受け入れ理解しないと平穏にはなれないのだと思うのです。
それを忌み嫌い、嫌な事だ、駄目な事だと思っている間は自分の思考や心や胸の内に残っているからです。
その思考が勝手に身体は反応しちゃいます。
だからそのうちは平穏に死ねないのです。
魂もそれを理解したいと思っているからです。
「有難い」を観えない人もいるけど、
『有難い」は「当たり前」を理解しないと同じで、
見える世界も見えない世界も両方理解するのが陰陽の世界。
陰陽思想派だと自分の事を言うつもりはないけど、
昨日も言った通り、片側だけとか一つだけでは理解できない、
片側だけでは気づきも得ることがない、それではまた偏る。
なので、相対論派がどんなんか、陰陽思想派がどんなんかは詳しく知ることは無いけど、同じような事だと。
何かを知るうえで、通って来た道で、知り得た知識で、
詳しく知って単語や意味を覚えたところで学者でない人生の参考書や手引書みたいなものとして捉えているだけ、
その中のひとつを知ると、全てのパズルにハマる的な感じです !(^^)!
すべて通じる事だと思ってる (*^^*)
一つの世界だけで答えは出ない。
全ての世界観は繋がっていて通じているのだと。
常に、出来事や考えや心にも表裏が存在するようにです。
平穏の中だからこそ自身を俯瞰できる環境をもらったと考えてみてはどうかなんて思いながらいつもブログ記事書いてる私でもあります (^^;)
還暦離婚して貯金も無い私なんかは本来もっと働かないといけないかも知れないけど、その裏にはなんぞ気づきもあるのだろうと、
のんびりブログなんぞ書いてるのです。
平穏に暮らしながら楽しみ見つけながら
病気も痛みも無いし、健康そのものだし、
このまま明日死んでも良いよと思いながらも
生かされているし、何だか平穏だし、焦りも無いし、
ただ生かされているんだとしたら、
きっと勝手に当たり前に生かされているのだから
任せるしかないし、どうぞどうにでも調理してって感じです。
出来るなら楽しみの笑える人生の中の鍋にでも入れてって感じ (*^^*)
その「どうにでも任せる!」を哲学してみろという指令でも出しているのかなって感じです
まだまだ見えない世界が見えてくるのかなって感じです (*^^*)
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