桜満開も早々と終わろうとしています。
いや、もう終わりました。
うちの玄関の前の花々もですが、すぐ隣の公園の桜も金木犀も
それほど一生懸命に世話をしているわけでもないのに、
毎年咲いています。繰り返し繰り返し…。
つい当たり前のようになっていて、
クンシランが秋の暖かい陽射しに狂い咲きをした時に
おかしいんじゃないかと言っていましたが、
花の方が大気に順応して咲いているだけだと気づきました。
私達人間の方が当たり前な事に当たり前になっている。
当たり前ですねと言葉で言う事は知っていて
そう言葉にして簡単だけど、
それを自分に活かし当たり前に順応する事はしないでいる。
野生の動物界でも弱肉強食や天敵やと、
ただ生き残って子孫を残すためにだけに生きている。
そこに順応しながら生きているのか。
動物の親子愛を見ているとそれだけでは無いやろうなと思う事はあるけど。
それでも直ぐに親から離れ自立をしないと生きてはいけない厳しい世界。
昭和までの時代の意識に似ている様な
そのまま止まっているのか、
子孫達の方が進化しているけど、
社会の進化がその意識に統合しようとしないと中々生きにくい。
いや、私の中に昭和の意識が根付いているからなのか、
進化のスピードについて剥がれない意識があるのか、
桜の花のようにパッと咲いてパッと散り、
その時その時に順応して生きて行く方が良いのかなって思ったりする。
今はそんなスピードの時代で、
個性の時代。
なんだっていいから生き抜く時代
花や樹々も見えない世界と融合しながら生きている。
世話をサボって言う訳では無いですが (^^;)
水が足りないならそれなりに…
風や光も自ら取り入れようとして。
土の栄養も私は一年に一度しかやっていないというのに。
先っぽが枯れてちょん切られてもまた伸びて新しく(^^;)
内側から眼が出て外側からむけて剥がれて行く。
うちの玄関前では小さなお花でももう20年はそんな事を繰り返しています。
公園の桜は引っ越して来て35年そんな時を見ています。
その花々や樹々の世界の自分での調整力と順応性には感服いたします(^^;)
一年の一時期で、繰り返しです。
人間なら100年の内の一年とか一日を
魂なら何百年や何千年の内の今の100年
どんなに当たり前に繰り返しているんでしょう。
今のまま生きているただそれだけで良いとは言うけれど…
生きているだけでいいのだけれど…
順応性や融合性は必要ないのか、
そこから人間の私達が学ぶ事は…
自分の中の世界を感じ、
自分の中の世界を広げ、
自分の中の世界を信じ、
外ばかり見て、
外ばかり求めて、
外ばかり見て嘆き憂うより
(サボりの私に求めるよりですよね (^^;))
綺麗に美しくパッと咲いて、
愛を広げて、愛を与えて、
散って、消えて、昇華して、
自分の主役の人生を自分が讃えてやるのも
良いのでしょう… ヽ(^。^)ノ
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