十数年前に流行った言葉ですね…KYやなぁ~って!
空気が読めないって (^_^;)
人との空気を読んだり、その場の空気を読んだり
大切な事だけど
そうしないといけないのか
今までの日本では「~しないといけない」「~でなければ」「~ねばならない」
そんな「すべき思考」で、みんな同じでないといけない空気にもなっていました
私もそうやって育ってきました
それが行き過ぎていて、いつしか歪んで行ったんでしょう
それが人を苦しめる事にもなります
この「KY~空気が読めない」というのも横暴だったり、我がまま過ぎたり、行き過ぎた人に使うのは良いかもしれないけど
これが当たり前に世間で流行、当たり前に「駄目な事」「マイナス言葉」となってしまうと
言葉とか行動のどんな事にも、ちょっとした事で人と反すると直ぐに「KY」と言われてしまい
その「KY」という言葉を恐れ自己主張や自由行動が出来ない場合も出てくる
ただの抑圧か自制でしかない場合もある
いつも思うけど、どうにかバランスよくならんもんかなと (^_^;)
私は思うけど、流行言葉が出てくるという事は「神様からのメッセージ」でもあり、「神様からの課題」でもあると思っていて
流行ったからそれが正しい訳ではなく、そのインフルエンサーによってもたらされているだけで
「考えなさいよ」「自分はどうか」そんな課題、その奥に隠されたメッセージみたいなもの
流行ったからそうでないといけないという事自体、「~でないと」という呪縛の呪いの言葉です
それに乗っかって、手相でもそのKYの空気が読めないという線をある手相占い師が言った事で有名になりました
私もその一人…この生命線と知能線の間が空いてる人は「KY」だって
そんな事が流行ってからは反対に先にこれを自分で自虐ネタに使って笑っていましたが
ある手相占い師はこの線を「自分の世界を持っている人」と言ってくれました
その通りでしょう…と言ってやったり~って喜びました (^_^;)
まあそれは良しとして
この空気を読み過ぎて言葉に出せない、行動に起こせない…
そんな人の言葉とか思いは出せないままどこに行ってしまうんでしょうね
思った事も、出そうと思っている言葉も、空気読んで飲み込んでしまう
それもどこへ行ってるの?
言葉も思いも自分の中に出せないまま溜まってしまうんです
これぞ病気の元です
一旦出してみましょうよ
最近つくづく思うのです
私も出せなかったイエスマンそのものだったから解るんです
出せないでいるより、出してから気づく
出してから空気感じる
KYに囚われ過ぎないでもっと自分の世界観を感じてみて欲しい
私の実感です
そんな事を乗り越えてきた私は、ちょっとしたグループや組織の中にいる時でも喋らない人の言葉を引き出したくなったりする
そんな言葉を出せない人の為でもあったりするけど、先になんか言いたい事言ったりする
後の人が言いやすいように…なんて思って (^_^;)
まあ、それが、「この人は何でも言える」「この人は人に意見できる」「せっかく決まりかけているのに」なんて思われたりする時もあるけど
それでもいいやって思ってる
どちらかと言うと、平等に言い合いたいというのが本音だって自分は思ってるから
まあそれでも、根底には人間思いやりは必要です
ただのKYなんて言わせないよ…なんてね (^.^)
それもみんなの魂がつぶやいている
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