緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

「死ぬ」についてです

2022-03-07 | スピ的視点
  昨日の続きでもありますが
書いていたらどんどん長ったらしくなって行く文章なんですが、多分私の脳裏には伝えたい事もだけど、魂から私、私から魂へと…自分自身への質問もいっぱいあるんでしょうね
インプットとアウトプットです
どこかの一部分でも誰かの気づきのきっかけになれば良いかなと… !(^^)!

昨日は世の中でというか、友達にも宗教に所属している人もいるという事から、そこの経典とか教えでは「死」というものをどんな風に捉え教えているのかなと気になったり、聞いたりしているという話をしていました (^.^)

先に言ったように私の頭の中には伝えたい事もあるけど聴きたい質問も多いという事です
興味がいろいろありただ聞きたいんですね
幼い子がお母さんに「どうして?これ何?なんでなの?」なんて言っているもんでしょう
面倒臭く思う人もいますし、自分の許容範囲を超えるとウザがられたり、自分の考えより超えると機嫌が悪くなったり怒られたり、無視されたりします

そういう事だなとシャッター閉じますが、だからその人がどうだと思いません
そういう人だったで終わります (^^;)
でもまだ自分の中には質問リストが残っているので相手を変えるだけです
どこかで誰かをお借りして質問しているんでしょうね
神様に聴いているのかも知れないです

まあこんな事をしながら、相手の心にも矢を放っている場合もあるので、それも良しか…と

昨日は、そんな宗教がどう教えているのかを知りたかったと言いますが、
それならどこかに入信して聴いたり学んだりすればイイやんと思うでしょうし、答えが返ってくるんでしょうが
せっかく良い教えを広める役目がある教団があるのに伝わっているのか?みんな幸せに導けているのか?って思ってるのかな

結局は教団がどうだとかじゃなく、
人間に伝わり、活用できるか、応用できるか、
というより、伝わっているか、活用出来ているか、応用されているかという事の方に意識が在るんだと思います

世界にも色んな神様がいるというのに何故戦争が起こるのか?
私は犠牲という一言で済ませたくない人類の死と考えていて、起こるべくして起こっていると考えているけど、それを見ている観覧者の心にも影響があって、そこにも教えや気づきが在るんだろうと
何億年も人類が始まってから続いて繋がっている繰り返しの現象でもあるので、そこからの本質については順を追って文章では話せませんが (^^;)

生きている時の学びで、体験の学び、観察者の学び、それぞれで繋がっています

世の中それを伝え教える宗教が在るという話でもあり、
所属していなくても身内の死に遭遇した時に機会も得ます
昔は3世代ぐらいが同居していたので死も身近に体験していました
ご近所でも共に弔ったりしていたので機会も多かったでしょう

現代では情報社会で耳や目に入ってくる事件事故で死の内容も様々です
その都度何故か悲しい辛い苦しい寂しい…悲惨や哀れという死が植え付けられる事ばかり
余計に死という問題がネガティブでセンシティブな問題となって、避けている話題でもあります

それは事件であって事象であって事実で在るだけで、本当は尊い課題でもあるのに…死の本質をどこか棚に上げているような

亡くなった時の葬儀や法要の後に少しだけお坊さんが説法する位ですよね
その時の僧侶たちの話も様々で、宗教や宗派によっても考えが違いますし、
それはたまたま親や先祖に縁があっただけで、それは宗教でもないしと言っています、弔ってもらう供養してもらうお坊さんという、そしてそこの経典でわざわざ勉強しようとも思わないというか、
わざわざ聴きに行く人もいないだろうし…
お寺さんもしんみりする事で人に来てもらうより、今ではダンスやヨガやと変ってもいます

亡くなった人をお墓に収めお仏壇の前でお経をあげると言いますが、そのお経の本当の教えより、お墓を守り、お仏壇を受け継ぎといった事にばかり意識がいき、本質を知らない人が多いのかなと

ふと思わないのか、先祖って長男だけなん?次男はどうするの?とかって…
その区別は何なん?だから遺産争いが起こるんじゃないの?
死んだ人より、また、亡くなった人の人生より、その人をみんなが弔う事より…って

普段のお仏壇の前のお祈りも、お墓参りも…そのカタチや物よりも中身の本質が教えられていないのかも知れない
お仏壇、お墓は象徴であって、そこを通じて先祖と繋がり、仏の道と繋がるんだと思う

神社仏閣でもです
神社に行って、神域に入って、良い気を感じてって、凄く良い事だと思います
でもそこに要らん気を置いてくる神経はどうかとも思いますね
神社の神殿には神鏡が在ると前にも言いました、その神鏡に向かい自分の魂と繋がるんです
自分の魂が美しいと知る、その鏡に自分の魂を純粋に写す、写せるか、神様とそこで一体になれるかです
神様は何でも許してくれます、だからこそ感謝するし、次に来る時にはもっと神様と一体化になれるように精進しますと祈るんでしょう
神様にいかに近づいて行けるか、帰ってからもその心を保てるか、だから家でも神棚や祭壇を置き、普段から繋がっている心を保って行くんでしょう
神棚や祭壇がなくても瞑想で繋がれば良かったりするんでしょう

寺院へ行って仏像を愛でてきます
大きな力も感じます、厳しさも感じます、それは宇宙のような大きな愛でもあります
その仏像の奥を感じ、そこから通じる意識と一体化になります
自分の力と一体化になります
その力に近づけるように日々精進します

そんな風に、神様や仏様に繋がると、その本質の経典もインスピレーションで感じます
大日如来様もその意識は宇宙です、宇宙の真理です
観音様でもどんな死に対しても受け入れてくれています
一度だけ、お経を見て、説明を読んだことがあります
罪による死でも、罰による死でも、どんな死に対しても許してくれています
それを直感で魂で感じているから一生懸命お経を上げる人もいるんでしょうし、自分の中のどんな罪や罰も自分で許せるような心になれるんでしょう

「死ぬ」という事に対しての区別や優劣や序列なんて本当は無いと伝えていると思う
生きているうちにそれを知るという事なのかなって思う、
だから死ぬという事は生きる事、生きるという事は死ぬ事になるのかと。
生きるも死ぬもどちらも尊いと知る
ただ生きるだけ、ただ死ぬだけ、ただ体験だけ
そこで自分がどう捉えてるんだ?どう考えているんだ?と心を成長させていくと良いのかなと (^.^)

死んだら終わり!って教えている経典もあるし、死んでも続くって教えてたりするしね、死んだら祝福で天に召されるって教えたり、死んだら地獄に落ちるよと教える事も…
では自分ではどう考えるんでしょうね (^.^)




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