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緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

「死」について

2022-03-06 | スピ的視点
  昨日にも言いましたが、私は「死」や「命」に自分の提議を持っていて考えを持っていますので、その都度その関連の出来事に出会った時により深く考えたりすれば良いかと思っています
いつ死んでも良いかなと…、でもその最期にはあがく自分がいるのかなとも思っていたりします
普段は命ある事でいろんな体験が出来ると考え感謝だなと思う方向へ進んでいます (^^;)
今年還暦ですがまだまだ体験しないといけない事あるのかなとか思いつつです
どんな体験するのかな、ついて行けるのかな…とか今の世の中のエネルギーの変化のスピードにアップアップ溺れないと良いなと思っている気持ちはありますが、それもワクワクに変えていきたいと思う私

普通の生活して普通の人間なら大概の人は「死ぬ」について考えてみても死んでみないと分からないもんですよね
それに「死」の話とか、「遺書」や「財産」の事でも生きているうちにと思いますが、センシティブな事だと捉えられていますね
身内や大切な人が死んだ時にはみんな悲しむ事だと思っています
それは本当の事なんでしょうか
どう悲しいんでしょうか
私も父親が71歳でなくなった時にそんな事を考えました
でもその時にはもう死ぬ事について自分の考えを持っていたので、死んだ事に関しては悲しいとか寂しいとか辛いという感情はありませんでした
亡くなった時点でどんな父親であろうと父親の人生そのものを尊重しようと思いました
でもその後には、父と過ごした時間の場面を今に共有した時とか、孫との色んなシーンと遭遇した時、そんな時に父親の思いとか考えとかを感じた時に涙が出てきていました
その時の父を思い出したり、父親への感情を思い出したり、その昔には気付かなかった父の新たな思いに気づいたりした時です

死んで別れるという事よりももっと後の方が感情を共有したのかなと思うぐらいです
それを生きている時にとも思いませんでした
それが先祖代々続くという絆の本質なのかなと思っています
いろんな感情のバトンが引き継がれ繋がって行くという事なのかなと…。
そしてどこかにいつかにゴールが在るのかなと思っています (^.^)

今、平和な日本に住んでいて、平和ボケとも言われていますが、発展途上国の命だとか、外国の戦争を見て、ほぼリアルに情報が流れて来るのでホント現代なのか…地球の同じ時間、同じ空間なのかとギャップを感じている人は多くいると思います
それを無意識に捉えてしまって心が病んでしまう人もいます
だからこそ自分の中心をしっかり持っていないといけないなと思うんです
中心というのは自分の本質で概念で哲学です

そこで、先日友達と話していて…まあ普通の主婦友で世間話でおばちゃんの会話ですが、「コロナも嫌やねぇ~とか、ウクライナも大変やねぇ怖いねぇ~嫌やねぇ」とお互いに他人事のように話していたんですが(よくある井戸端会議の様な) (^^;)

そんな時にふと、そんな彼女はある宗教に所属しているので質問してみました
(私は宗教を否定もしないし、誰がどんな宗教に入っていても自分のジャッジには影響しません)
ただ聞いてみたいだけ (^.^)
私: 「ねえねえあなたの所属している〇〇教の教祖さんと言うか創始者は亡くなっているよね~その教えでは「死について」どう教えてはるの?」

友: 「その人はまだ生きています」
   「まだそこに居て、ご飯も渡しに行くし、生きていると同じように」
教祖様を誇らしく尊重しているという感じで答えてます
そう学んでいるんでしょうね、教祖を崇め奉るという気持ち

私: 「あぁ~高野山の奥の陰の弘法大師さんと同じやね」
   「生きたまま入定するという」
   「死なないという教えなの?」
   「じゃあ、その教えを学んでいる自分達の死についてはどう教わってい      るの?」  
   「自分達も生きたままどこかに安置される事は無いよね」
   「死んだらどうなるって教わっているの」
   「死ぬの定義は?」
友: 「それは…分からん…夫やったら知ってるかも」

私ちょっと意地悪ですか (^^;)
その友達はご家族もご主人の家族も入信していて、田舎の実家でも分教団の管理者でもあるので、もちろんお勉強もしてるかなと思いちょっと聞いてみたかったんです
死んだらどうなるの?という事でも同じ人間でも創始者と信者に区別が在るんでしょうか、それをどう教えているか知りたいけど
そこで区別を創るから、また、その心理を植え付けるからおかしくなって行くんじゃないのか
今の世の中の区別や不公平や支配やと…
お釈迦様や弘法大師様でもイエスキリストでもそんな教え方はしていないと私は思っているけど
だからイエスキリストは人間は血や肉に属さないという事を伝えるために生まれ変わりをして見せて伝えたと聞いた事があるけど…
その意味か本質が伝わって解釈されていないのか…

友達には色んな宗教に入信している人がいるので、つい聞きたくなるし、機会があれば聞いてみます
私は団体には興味ありませんから聞いても入信までに至らないという変な自信があるからかな
いつも言いますが団体に所属すると規律や制限があり個性が潰されると考えるからです…よっぽどで納得しない限りは必要でない

その友達たちにいろんな事聞いた事ありますが、答えが返ってきた事は一度も有りません
中には…勉強しないとアカンねんとか、そんなん知らんわとか、そんなン関係ないねんとか、ただお経あげるだけやからとか、いろいろです

中にはもちろん勉強している人もいるでしょうが
じゃあ何のために所属しているのかなとか思ったりするし、その教団とか教祖は信者さんのどこまでを知って考え思っているのかなと思ったりします
責任持てとは思いませんが、お金集めじゃないなら、せめて伝える事にもっと努めれば良いんじゃないかと思いますね

いろんな宗教団体は世界に手広く広げているというのに人類の概念は成長しないんだろうか

宗教という言語の概念の捉え方が歪んでしまったからでしょうか
宗教というイメージが世間では親しみの無い変な得体の無いものという
オカルト的になってしまいましたね
普段に活用や応用が出来ていないと、今の現代に戦争を見た時にどう心が動いてしまうのか
コロナをどこかの教祖様はどう説明しているのか
それをどう普段に活かしているのかが必要なのに…と思う

いろんな見方があって良いと思うけど、それを普段に使えないとなると何のための宗教かとも思ってしまうのは駄目な事か? (^^;)




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