多古町 島 成等山正覚寺です。 ぶらり散歩案内地図の確認で行ってきました。
島の多古町農村交流センター(集会所)の脇に、役場で設置した案内板がありました。が、100m先は垣根で行き止まりなので、「100m先左」としたいもの。(笑)
ここが正覚寺です。 寺は、集会所からも見えています。 前に公園があります。 (取材した日はしとしと雨の降る日でした)
各種説明板があります。 ここは不受布施派のお寺で、一時は弾圧もあったようです。
集落の構成員の位置と屋号:こんな説明板は珍しいですね。 当時は隠れキリシタンのようであって、道路も迷路のようになっていて、今でも迷いそうです。 よく集落全体を迷路のように配置したものだと思います。(最初から家の配置まで設計したのか、家はそのままで、後から道路を変化させたのか???)
集落に神社がいくつかあるようです。 それぞれ意味合いがちがうのでしょうか?(たしか志摩城址にではなく、集落内に妙見があったように思いました)
不受布施派の各お寺。
釣鐘がありました。 寄進であったそうな。
釣鐘堂、鐘楼というべきか? ずいぶん屋根が尖っています。
宝蔵庫、大事な書物などを入れる土蔵ですが、このマークが珍しい。 不受布施派のマークですか? 初めて見ました。
これは帰り道の案内板ですが、JAや国道296号に向かうところなのですが、200m先となると「田んぼの中」になってしまいます。(笑) 「200m手前」ですね。 ・・・チェックしてくださいね、それと、だいぶ汚れて来てるんですよね。
ところで、志摩城、正覚寺、多古城、東禅寺 の関係が良くわからないですね。 二つの説があるようです。
例1)
千葉胤直・胤宣・けん族の墓 旧土橋山東禅寺墓地に、中世の北総の名家千葉宗家の7基の五輪塔がある。
康正元年(1455)3月、胤直は胤房に千葉城を急襲されて落城、千田庄に逃れて胤直は志摩城(島)、子胤宣は多古城で再起を図りました。馬加康胤は胤房に加勢し、両軍の攻撃に多古、志摩城は防戦かなわず堕ちた。
8月13日胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃し、15日胤直は東禅寺に走り、ここで一族郎党と自刃して果てた。時に胤直は42歳胤宣は弱冠15歳の若武者であったといいます。
例2)
籠城から四か月ほど経った8月12日、胤宣はついに開城する旨を伝えた。そして、胤宣らは「むさ」の阿弥陀堂に移ることを望み、康胤入道はこれを受け入れた。こうして千葉介胤宣一党はその阿弥陀堂で自刃を遂げた(『鎌倉大草紙』)。
その三日後の8月15日、原胤房の猛攻によって志摩城も陥落。胤直入道は同日「妙光」において自刃した。
(この「妙光」とは「嶋村妙光寺」=「本覚山妙光寺」のこととされ、明治41(1908)年に長崎県へ移され、旧地には成等山正覚寺が建てられている。)
*胤直が、東禅寺にて自刃という話と、妙光(現、正覚寺)にて自刃したという話があるようです。
確認に行ってやはりわかるという点もあります。
ここは志摩城の近くでもあり、不受布施という珍しいお寺。 寺以外の集落の不思議な感じもあるので、ぶらり散歩の案内地図に載せたいと思います。 道の駅から平坦地なので、徒歩では遠くてもレンタサイクルなら大丈夫だから紹介し、また、帰りに自動車で寄るという方もありますので、駐車場もあるのでお勧めできます。