三雲・井原遺跡:「三雲南小路王墓」の周溝?弥生中期の溝など発掘--糸島市 /福岡(3月9日 毎日新聞)
◇上覚地区--13日に現地説明会
糸島市の三雲・井原遺跡上覚地区で、弥生時代中期末(紀元前後)の溝や古墳時代初頭の箱式石棺墓などが見つかった。発掘調査にあたった同市教委は、この溝が「三雲南小路王墓」の周溝の可能性があるとしている。【竹田定倫】
(中略)
現地説明会は13日午前10時~正午。市教委文化課(092・332・2093)。
〔福岡都市圏版〕
という訳で、その現地説明会に行ってきた。
この手の説明会に行くのは初めてで、こんなのに行くのはマニアックなじいさまたちばっかりかと思ったら、意外と若者や奥様がたも少しいた。
なにせあたりは庭を掘れば何か出るというほど遺跡だらけの三雲・井原地区。
遺跡への関心も高いのか、質問も高度なものが飛び交っていた。
今回の発掘調査は、おそらく個人所有の田んぼを農閑期に掘り返させてもらったもの。
3月中には埋め戻して元の田んぼに戻さなければならないらしい。
埋め戻しは遺跡を破壊するのではなく、実は遺跡の保存方法としては有効な手段なのだが、これで当分の間(ひょっとしたら永遠に)、この遺跡を目にすることはなくなるのである。
来年はこの隣のビニールハウスのところを発掘調査する予定とのこと。
考古学調査とはなんとものんびりしているもののようにも見えるが、この遺跡がたどった二千年の歴史から見れば、ほんのわずかな時間なのだろう(市の予算とか地権者との調整とか、いろいろと大変なのよね、たぶん)。
今回の発掘調査の目玉である溝の跡。道を挟んで隣にある三雲南小路王墓の周溝の続きである可能性があるが、別の王墓が存在するのかもしれない。来年の発掘調査ではっきりするかも。溝は流れの跡がないことから空濠だったと考えられるそうで、写真の上の方で終わっている。その右には古墳時代の竪穴式住居跡が見つかっている。 | |
三雲南小路王墓の周溝(砂利の部分)。 |
溝の跡からはかなりの数の土器の破片が発見されたらしい。
帆立柱の跡かと思ったら、ゴミ捨て場の跡なんだそうな。
今回の発掘調査のもう一つの目的。江戸時代に三雲南小路王墓が発見された時に、それよりさらに前に村境の溝で農民がみつけたという幻の井原鎗溝王墓の手がかりになるかもしれない江戸時代の水路跡も発掘された。 |
その他、今回の説明会で聞いた話で面白かったこと。
・今後の周溝の発掘次第だが、およそ30m四方と考えられていた三雲南小路王墓が50m四方の当時としては巨大なものだったかもしれない。
・実は三雲・井原遺跡は集落跡まで含めると吉野ケ里遺跡より規模が大きい。
・今年、銅鏡の数で日本最多と話題になった桜井茶臼山古墳は古墳時代の遺跡で、“弥生時代のものとしては”の前置き付きなら平原王墓もまだまだ日本に誇るべきものである。(ちょっと身びいきなところもあるかも)
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新聞記事全文
三雲・井原遺跡:「三雲南小路王墓」の周溝?弥生中期の溝など発掘--糸島市 /福岡(3月9日 毎日新聞)
◇上覚地区--13日に現地説明会
糸島市の三雲・井原遺跡上覚地区で、弥生時代中期末(紀元前後)の溝や古墳時代初頭の箱式石棺墓などが見つかった。発掘調査にあたった同市教委は、この溝が「三雲南小路王墓」の周溝の可能性があるとしている。【竹田定倫】
同王墓は中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都国王墓の一つとされる。過去の県教委や市教委の調査で王墓と女王墓、墓を囲む周溝が出土している。
上覚地区は王墓の出土した場所と道路をはさんだ南側に位置し、溝(幅2・5~3・8メートル、長さ9メートル、深さ20~25センチ)は北東から南西方向に延び、王墓西側の周溝に向かっている。しかし、王墓西側の周溝は切れているとの見解もあり、市教委は、別の首長級墓の周溝の可能性も捨てきれない、との見方も残している。
現地説明会は13日午前10時~正午。市教委文化課(092・332・2093)。
〔福岡都市圏版〕