もう先月の話だけど、テンジン大学の[休日のタイムトラベラー]~六本松近くで起きた大事件!~というやつで、竹崎季長の蒙古襲来絵詞に描かれた元寇(文永の役)の有名なシーン「鳥飼潟の塩屋の松の下」(上の画像)の場所に行ってみようという企画。
松の木が残ってるという訳ではなく、辛うじて「塩屋」の地名が残っているということで、樋井川にかかる塩屋橋に行ってきた。
ちなみに上のシーンの右手で血を吹き出す馬に乗っているのが竹崎季長で、その右奥にあるのが「塩屋の松」。
左手で季長と対峙する3人の蒙古兵は後世に書き足されたもの(よくみると他の部分とタッチが違う)で、季長が描かせたのは蒙古兵を敗走させてる絵という訳だった。
武将は竹崎季長、ではなく、ガイド役のテンジン大学の学長。 昭和46年までは「塩屋町」という地名もあったらしい。 この辺はかつて草香江の津の干潟があったところで、塩田でもあったんだろう。 |
んで、学長殿が言うには、塩屋の松で作った社号額が鳥飼の埴安神社にあるという話があって、確かにそれらしい額が架かっていたが確証はないとのことだったので、先日その埴安神社に行ってみた。
鳥飼3丁目の住宅街にある埴安神社。社務所なんかはない小さな神社だけど、 境内は小さな公園ぐらいの広さがある。左殿には鳥飼八幡宮の元宮が! |
拝殿の中に社を祀ったような不思議な社殿。 上には確かにくねくね曲がった松を切ったような額が! |
境内には明治の政治家・金子堅太郎先生生誕地の碑(右)と何やらでっかい石碑(中央)がある。 |
で、やっぱり何の説明もないので、額が塩屋の松なのかどうかは分からない。
ネットで見つけた「南当仁公民館だより平成26年3月号」によると、何やらでっかい石碑は明治22年に建てられた「艸香江碑」といって「鳥飼の里」の歴史が刻まれてるそうで、「埴安神社に(当時)ある松は『塩屋の松』と呼ばれ、幹回りは大人6人が手をつなぐほどで、世に稀な美観である」とあるらしい。
なるほど、塩屋の松はこのへんにあったという可能性は高そうだけど、社号額との関係は分からない。
ならばと思って鳥飼八幡宮に電話してみたら、宮司さんが教えてくださった。
曰く、「埴安神社にあった塩屋の松が枯れて、埴安神社の額になったという“伝承がある”」とのこと。
ついでに「かつて草香江の津に塩田があって、その名残で鳥飼八幡宮の境内に鹽竈(しおがま)北辰神社がある」ということも教えてくださった。
いや~、聞いてみるもんだなあ。
まあ、そういう訳で、蒙古襲来絵詞の「鳥飼潟の塩屋の松の下」は埴安神社のあたりだった。その松は埴安神社の社額になって今も残っている。(伝承)ということですね。
こんな住宅街で戦ったなんて…(いやいや、当時は干潟で家なんかなったって)。
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