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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~おまけ26~ 意外とチャチな水城西門

 
もうずいぶん日が経っちゃったけど、九国博「古代日本と百済の交流」に行ってきた。
目玉は去年の「国宝 大神社展」でもレプリカしか来なかった、九州初登場の国宝「七支刀」の本物(1月15日~2月15日)。
まあ、オイラごときに本物とレプリカの違いが分かる訳がないんだけど、やっぱ気分が違うわな。
しかし、最近はゲームとかアニメとかで子どもにも「剣」は響くらしく、息子ばかりかその友だちまでついてきちゃって、騒がしくてゆっくりも観ておられず。
最近読んだ『日本国成立の日』(生野眞好著/スペースキューブ刊)って本で、「日本」という国名の成り立ちに百済がかなり関わってんじゃないかって話が載ってたので、近々再訪してみようと思ってます。
ところでこの展覧会、もともと去年の開催予定だったのに、対馬の仏像盗難事件の煽りを受けて、韓国の展覧会に文化財を貸し出すとそのまま戻ってこないかもしれないと危惧する所有者が多かったため、無期延期になっていたという曰く付き!(参照
扶余での展覧会は無事に開催できるんでしょうか?

そういう訳で、帰りは展覧会の内容にも関わりのある水城に。
水城の東門は九国博や大宰府関連の主要スポットに続くメインストリートにあるので今まで何度も行ってるけど、西門には行ったことがない。
去年、水城築造1350年記念で「水城ゆめ広場」ってのが整備されたらしいんで、きっと西門の近所だろうと思って行ってみた。

「ゆめ広場」といっても駐車場とトイレ付きの東屋があるだけ。向こうの森が水城の続きかと思ったけど、どうもそうではないらしい。
東屋の裏に「西門跡」の案内板があったので森の奥に入ってみたけれど…

ここには何もないし…なんか妙なとこに出たぞ?まさか、これが西門!?

森をさまよった挙句、西門跡は見つけられず。
結局東屋に戻って、展示してあった航空写真から場所を推測してクルマで行った。
まったく何のための「ゆめ広場」なんだか…。
で、やっと見つけた西門跡は細い裏道にあって、クルマを停めるとこもない。

住宅街の奥の細い道にある西門跡。でも、昔の官道なんて、この程度の幅だったんだろうな。
こんなのがあるところを見ると、西門の調査が始まったのは意外と最近の話なのかも。


ところで、水城といえば、百済の再興を図る倭国(日本)軍を663年に白村江で破った唐・新羅連合が倭国本土に攻めてくるのを恐れて築いた防衛のための土塁というのが定説になっている(つうか、僕もそう思っていた)。
しかし、前出の『日本国成立の日』によると、唐が白村江で戦ったのは高麗を滅ぼすのが目的であって、日本と直接戦うという意思はなく、その事情も理解していた朝廷が百済からの亡命者たちの働き場所として水城(および大野城、基肄城)を造ったのだという。
日本(書)紀の記述にも「防塁を築いた」ではなく「大堤を築いた」とあるらしい。
この本、その前の斉明天皇が福岡の朝倉橘広庭宮で崩御したあと中大兄皇子(天智天皇)が長いこと即位しなかった(なのに元号は「天智」になってる)ことについても考察してあって、書いてあることが正しいのかどうかの判断は僕にはつかないけど、結構参考になりまする。

追記
福岡大学の小田富士雄先生も、水城・大野城・基肄城は対唐・新羅連合の防衛目的ではなく、「律令国家にふさわしい新たな都城整備のための外郭造り」という説を発表しているそうです。


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日本国成立の日あなたは日本の誕生日を知っていますか?生野眞好スペースキューブ刊


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