ようやく、長次郎の茶碗とご対面できた。
たまたま、”長次郎”・・・と言う本を持っており、写真でみていたけれど、やはり実物は違う。
写真と違う第一は、色。
たとえば、有名な”大黒”と言う茶碗。写真では黒が主体の様に見えるけれど、実物はもっと茶色がかっている。
撮し方にも色の違いが出るのかもしれない。
大きさは、真さに手の中にすっぽり入るサイズ。そして割と薄作り。
本によると。。。。。
長次郎の時の茶碗の色が茶色味を帯び、艶がないのは・・・・・
ふいごの調子が良くない、素焼きをしないでそのまま黒釉をかける、さやに入れないで裸のまま焼いたので、煙があたり、灰がふりかぶる。
という事が原因らしい。
そういえば、比べると、展示してある”道入”の茶碗は大変艶がある。
そもそも利休が楽茶碗を長次郎に焼かせたのは、三畳台目以下の小間で侘び茶をする為の茶碗が必要だった為。
唐物は侘び茶にはふさわしくない、高麗はふさわしいけれど、数が少なく高額、それならと土のぬくもりを感じさせる楽茶碗は、利休の求める茶にぴったりだったのでしょう。
茶会記には、最初に楽茶碗が使われたのは、1586年とある。
利休自刃が1591なので、利休は楽茶碗は約5年ほどしか使わなかった事になる。
私は利休の茶には、最初から楽茶碗を使っていたと思っていたが・・・・・。
長次郎の後を継いだのは、長次郎と一緒に仕事をした、田中宗慶、楽家の初代になる。
宗慶は秀吉より、天下一の称号をおくられている。
本の著者は、宗慶は利休の子供ではないかと言っている。
利休は知られているだけで、女子4人、男子、道安、そのほか庶子もいる。
真実は神のみ知るかも・・・・である。
初代より代々の茶碗はそれぞれ特徴をもっている。
最後に当代の茶碗の数々を見る。
流れゆく時代の中で、楽焼の伝統を守り、その中で個性を出すことは、大変なことなんだろうと思ってしまう。
コメントは差し控えるが、利休の侘び茶の原点からはとてつもなく飛躍している。
美術館を後にして、白川の前のカフエで休憩。
此のあたりは南禅寺へも近く、風光明媚な所。あたりは広々としており、散策すると気分がすっきりする。
右京の田舎に住んでいるので、なんだか王朝の雰囲気の残るこのあたりに引っ越ししたい気分。
そういっても現実は不可能に近い。そうなら旅行者になり、次回はもっとゆっくりとこのあたりを散策してみよう。
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