S.E裏千家茶道教室 お茶のひと時

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長次郎楽茶碗とのご対面

2017-01-29 12:42:42 | 紅茶、茶道&マナ-のお話

ようやく、長次郎の茶碗とご対面できた。

たまたま、”長次郎”・・・と言う本を持っており、写真でみていたけれど、やはり実物は違う。

写真と違う第一は、色。

たとえば、有名な”大黒”と言う茶碗。写真では黒が主体の様に見えるけれど、実物はもっと茶色がかっている。

撮し方にも色の違いが出るのかもしれない。

大きさは、真さに手の中にすっぽり入るサイズ。そして割と薄作り。

本によると。。。。。

長次郎の時の茶碗の色が茶色味を帯び、艶がないのは・・・・・

ふいごの調子が良くない、素焼きをしないでそのまま黒釉をかける、さやに入れないで裸のまま焼いたので、煙があたり、灰がふりかぶる。

という事が原因らしい。

そういえば、比べると、展示してある”道入”の茶碗は大変艶がある。

そもそも利休が楽茶碗を長次郎に焼かせたのは、三畳台目以下の小間で侘び茶をする為の茶碗が必要だった為。

唐物は侘び茶にはふさわしくない、高麗はふさわしいけれど、数が少なく高額、それならと土のぬくもりを感じさせる楽茶碗は、利休の求める茶にぴったりだったのでしょう。

茶会記には、最初に楽茶碗が使われたのは、1586年とある。

利休自刃が1591なので、利休は楽茶碗は約5年ほどしか使わなかった事になる。

私は利休の茶には、最初から楽茶碗を使っていたと思っていたが・・・・・。

長次郎の後を継いだのは、長次郎と一緒に仕事をした、田中宗慶、楽家の初代になる。

宗慶は秀吉より、天下一の称号をおくられている。

本の著者は、宗慶は利休の子供ではないかと言っている。

利休は知られているだけで、女子4人、男子、道安、そのほか庶子もいる。

真実は神のみ知るかも・・・・である。

初代より代々の茶碗はそれぞれ特徴をもっている。

最後に当代の茶碗の数々を見る。

流れゆく時代の中で、楽焼の伝統を守り、その中で個性を出すことは、大変なことなんだろうと思ってしまう。

コメントは差し控えるが、利休の侘び茶の原点からはとてつもなく飛躍している。

美術館を後にして、白川の前のカフエで休憩。 

此のあたりは南禅寺へも近く、風光明媚な所。あたりは広々としており、散策すると気分がすっきりする。

右京の田舎に住んでいるので、なんだか王朝の雰囲気の残るこのあたりに引っ越ししたい気分。

そういっても現実は不可能に近い。そうなら旅行者になり、次回はもっとゆっくりとこのあたりを散策してみよう。

 

 

 

 

 

 


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