このところよく大寄せの茶会に寄せてもらう。
京都はお膝元、いろいろな処で”釜”がかかる。
海外では、お茶の心は勉強できても、なかなか、年代もののお道具を拝見する機会は無かった。
其の点、大寄せの茶会では、一入やら了入やらの楽茶碗、淡々斎、認得斎の茶杓、・・・等々古い時代から受けついで来たお道具が手にとって拝見することが出来る。
楽しいし、又勉強にもなる。
しかし・・・・・お茶会の本質は、お道具もさることながら、一座建立で心やすぐ
ひと時を過ごす事だと思うのだけど・・・。
座の雰囲気はひとえに”釜”を掛けられている亭主(先生)によって異なると思う。
ある席では、水屋から、先生のおしゃべりが聞こえてきたり、ある席の先生は席中で事務的にお道具の説明をされるだけだったり、ある席では、先生が我が物顔だったり、・・・・・。
お茶の心がどこかで忘れられている。
そんな中、ある席での先生は、腰が低く、お道具の説明も控えめで誠実で、其の先生が席中におられるだけで、なんだか心が洗われ、豊な気持ちになった。
あぁ~~こんな先生のお席なら、何回も寄せてもらいたい!!・・・そう思った。
”実るほど垂れる稲穂かな”・・・正にお茶の心を教えてくださった真の茶人さんでした。
京都はお膝元、いろいろな処で”釜”がかかる。
海外では、お茶の心は勉強できても、なかなか、年代もののお道具を拝見する機会は無かった。
其の点、大寄せの茶会では、一入やら了入やらの楽茶碗、淡々斎、認得斎の茶杓、・・・等々古い時代から受けついで来たお道具が手にとって拝見することが出来る。
楽しいし、又勉強にもなる。
しかし・・・・・お茶会の本質は、お道具もさることながら、一座建立で心やすぐ
ひと時を過ごす事だと思うのだけど・・・。
座の雰囲気はひとえに”釜”を掛けられている亭主(先生)によって異なると思う。
ある席では、水屋から、先生のおしゃべりが聞こえてきたり、ある席の先生は席中で事務的にお道具の説明をされるだけだったり、ある席では、先生が我が物顔だったり、・・・・・。
お茶の心がどこかで忘れられている。
そんな中、ある席での先生は、腰が低く、お道具の説明も控えめで誠実で、其の先生が席中におられるだけで、なんだか心が洗われ、豊な気持ちになった。
あぁ~~こんな先生のお席なら、何回も寄せてもらいたい!!・・・そう思った。
”実るほど垂れる稲穂かな”・・・正にお茶の心を教えてくださった真の茶人さんでした。
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