S.E裏千家茶道教室 お茶のひと時

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萩焼の里を訪ねて・・・・パート②

2009-09-27 14:51:12 | 紅茶、茶道&マナ-のお話
翌日、20日は城下町エリア散策。

近江商人の家、「旧久保田家」、そして「菊屋家住宅」、「旧湯川家住宅」へ。

「菊屋家」は、江戸時代前期に建てられ、幕府巡見使(幕府を見まわる)の宿として*本陣として使用されました。

*本陣・・貴人、大名が泊まった公的な宿泊場所の事

萩城に泊まると、費用がかさむ為とされる。
商人の家には無い、門を作り、庭には籠置きの石が設置されている。



     (菊屋家と御成道)           (中央下にあるのが、お籠石)


下の写真の萩茶碗は、有栖川公が明治23年(1890年)、「菊屋家」に滞在された時に使用の萩茶碗で、9代"坂高麗左衛門”が焼かれたものです。

 

(萩藩のご用達を勤めた豪商、菊屋家展示の萩茶碗) 


ここで、萩焼きについて少しお話します。

☆萩焼「松本焼」とは・・・・

豊臣秀吉の時代、朝鮮出兵は別名”やきもの戦争”と言われ、出陣した大名は、こぞって井戸茶碗を求め、多数の朝鮮陶工を連れて帰りました。
わび茶趣向により、今までの天目茶碗に代わり、井戸茶碗を求めていたからです。

当時の萩は戦国武将、又、利休の弟子でもあった茶人、毛利輝元が徳川家康より、
かの地を与えられ、城を築きました。

そして、輝元は、広島でやきものに従事していた、朝鮮の陶工、「李勺光」、そしてその弟の「李敬」を呼び寄せ、城下、松本の中の倉に開釜を命じたのです。

「李敬」は後、「高麗左衛門」の名を賜る。

それから後、島根県で陶業を営んでいた、朝鮮の陶工の子供、初代、三輪休雪が御用釜にとりたてられる。
藩命により、京に楽焼の修行に行き萩焼きに和風を注ぐ。

* 三輪家発祥には、二説あり、大和の住人、源左衛門とする説があり、家伝はこちらを取っておられるそうです。


☆萩焼「深川(ふかわ)焼」とは・・・・

「李勺光」は妻帯し、男の子をもうけたが、早死。
子供は弟の「李敬」により育てられる。
子供、作之允(さくのじょう)は、成人し、父と同じく御用釜の総支配人になったが後、仲間の陶工と、長門湯本、三ノ瀬、深川に住まいを移す。


歴史を知ると、萩焼きにも一層興味が増しますね。

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