1974年3月1日、ポリドールレコードから『今夜かしら明日かしら』(作詞:山上路夫、作曲:筒美京平、編曲:高田弘)がリリースされ、テレサ・テンが日本デビューを飾りました。デビューに当たっては、渡辺プロダクションの子会社のサンズがテレサと営業契約を結び、サンズとポリドールが契約するという形式をとっていたようです。
当時の日本の歌謡界では、台湾出身の欧陽菲菲が1971年に東芝音楽工業から『雨の御堂筋』でデビューし、その後も『雨のエアポート』『恋の追跡』『夜汽車』『恋の十字路』と次々にヒットを飛ばしていました。
また、香港出身のアグネス・チャンが1972年にワーナー・パイオニアから『ひなげしの花』でデビューし、その後も『妖精の詩』『草原の輝き』『小さな恋の物語』とこちらもヒット曲を連発し、アイドルとして人気者になっていました。
このような背景があり、ポリドールとしても香港や台湾等の中華圏で売れそうな歌手がいたらスカウトしたいとの意向があったのだと思います。
1973年3月、香港のライブハウスで歌うテレサ・テンの歌を聴いたポリドールの社員がその歌声の素晴らしさに惚れ込み、テレサとすぐにでも契約しないと他のレコード会社と契約されてしまうと思い、日本に帰国後の会議でテレサをスカウトすることを強く主張したとのことです。
その結果、当時ポリドールの契約制作部長をされていた舟木稔さんが香港に出向き、契約交渉をすることになったのでした。この舟木稔さんは、テレサの日本の父とも呼ばれ、後年テレサが所属することになるトーラスレコードの社長をされた方です。
テレサ本人は、幼い頃から美空ひばりや小林旭の歌を聞いて育ったので日本で歌うことに憧れがあったようですが、テレサのお父さんが日本行きを反対し、交渉は難航したようです。しかし、舟木さんの粘り強い交渉の結果、ようやく話がまとまり、テレサの日本デビューが決まったのでした。
当時香港のライブハウスのステージでは、テレサはトリを取っており、すでに大スターでした。1974年の平凡パンチの記事によると、『現地では、(欧陽)菲菲ちゃんの10倍はかせぐという噂もある』とのことで、テレサの台湾や香港での人気ぶりがうかがわれます。
そんなこともあり、すでに台湾や香港では大スターのテレサを、わざわざ行ったこともない日本で新人としてデビューさせる必要はないというのがお父さんの意見だったようです。
そのお父さんの意見も頷ける日本でのエピソードが有田芳生著『私の家は山の向こう』に書かれていますので、少し紹介したいと思います。
『あるテレビ番組に出演したときのことだ。香港からやってきたリンリン・ランランがテレサと控室が同じことに驚き、サンミュージックの担当者だった福田時雄に向かって怒り出した。「どうしてアグネス・チャンに個室が与えられてテレサさんはわたしたちと同じ控室なんですか」
彼女たちにとってテレサのような歌手と同じ部屋を使うことなど考えられないことだった。やがてテレサがやってきた。リンリン・ランランは興奮して「サインをしてください」と頼んだ。』-有田芳生著『私の家は山の向こう』 第二章 ふたたびの より引用
香港では、アグネス・チャンは新人で、テレサ・テンはトリを取る大スターなのに、日本では待遇が全く逆になっていたのです。リンリン・ランランは香港出身の双子姉妹デュオで、テレサと同じ1974年に日本デビューをした新人でした。リンリン・ランランにとって、テレサ・テンは憧れの大スターだったのでしょう。同じ控室になったおかげで、サインをもらうことが出来て、リンリン・ランランにとっては夢のような時間だったに違いありません。
ですから、テレサ・テンが日本デビューしてくれたことは、本当は奇跡的なことだったのかもしれません。舟木さんの粘り強い交渉がなければあり得なかったことですし、後にテレサファンになった日本人にしてみれば、「テレサが日本に来てくれて、本当に良かった。ありがとう。」という気持ちにもなるのではないでしょうか。
このように台湾や香港では大スターのテレサ・テンが日本デビューを飾ったわけですから、レコード会社やプロダクションの期待も大きかったわけですが、残念ながら『今夜かしら明日かしら』は、期待したほどには売れませんでした。テレサは、「自分の歌い方が悪かった」と言ってスタッフに謝っていたという話が伝わっています。このテレサのけなげな姿勢に、次の曲は何としてもヒットさせたいとスタッフの皆さんも発奮したことでしょう。
次の曲を何としてもヒットさせないと、新人賞が取れないかもしれないとの不安もあり、曲調を大きく変更した演歌調の『空港』(作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章、編曲:森岡賢一郎) で勝負することになったのでした。やがて『空港』は、テレサの歌唱力にも後押しされ、テレサの日本での活動の前半期を代表するヒット曲になり、1974年のレコード大賞新人賞を獲得することになりました。
この『空港』のヒットにより、その後演歌調の曲を次々とリリースし、テレサ演歌と呼ばれる一連の曲が生まれてゆきました。その中には、もちろん『空港』以外にもたくさんの素晴らしい曲があるのですが、テレサが香港で歌っていたジャンルは、もっと幅広いものでした。
今にして思えば、『今夜かしら明日かしら』をもう少し、ゆったりしたリズムのバラードにしていたらヒットしたかもしれないと、一ファンの私は考えたりします。そうなると、バラード調の曲が続き、テレサ演歌は生まれなかったかもしれません。
また、テレサには、ニューミュージック系の歌を歌って欲しかったという意見も聞いたことがあります。当時は、ユーミンや中島みゆき等、ニューミュージックをけん引した旗手がデビューするころで、演歌調の曲ばかりではなく、ニューミュージック系の曲も聴いてみたいですね。テレサも中島みゆきの『ひとり上手』を中国語でカバーしていますし、ユーミンの『冷たい雨』をミュージックフェアで歌っており、若い頃からもう少し多くのニューミュージック系の曲をリリースしてもよかったのかもしれません。人生に『たられば』はないのですが、テレサの一ファンとして様々に夢を膨らませてみました。
後年、テレサが『つぐない』で日本再デビューをしたころのインタビューで、日本の芸能界について顔を曇らせてこのようなことを語ったことが忘れられません。「日本の芸能界は、厳しかったです。髪型も自由にできませんでした。…演歌にはこぶしが必要と言われましたが、なかなか難しいです。今はこぶしありません。…」
デビュー時は、年齢も実際は21歳なのに、2歳さばを読んで19歳と発表されたり、イメージ作りのために服装や髪形まであれこれ指示されていたのでしょう。また、演歌は日本ではこぶしを入れないといけないと歌い方にも細かく指示を出されたようです。そして、香港ではお酒を飲んだお客さんは、一番後ろの席で歌を聴くルールがあったようですが、日本では夜のキャバレーで酒飲みを相手に歌う仕事があり、中にはお行儀の悪い嫌な客もいたようで、そんな時はテレサも涙を流していたと聞いています。せっかく憧れの日本へ来てくれたのに、こんなことがあったと知ると本当に申し訳ない気持ちになります。
でも、そんなこともあったにせよ、日本でテレサの歌を聴くことが出来るようになったこと、またテレサの姿をテレビで見られたことに対しては、本当にうれしく思います。改めてテレサの日本デビューに尽力くださった皆様に感謝したいと思います。
※参考資料
有田芳生著『私の家は山の向こう』文芸春秋刊
平凡パンチ 1974年3月25日号