本日5月8日は、テレサ・テンさんの命日です。
1995年5月8日に、療養先のタイのチェンマイで、気管支喘息の発作のため42歳という若さで亡くなられました。
あの日から28年という歳月が流れましたが、テレサ・テンさんの死亡を伝えるテレビの画面を呆然と眺めていた当時のことをつい昨日のように思い出します。
当時、どれほど多くのテレサファンが、信じられない思いで、この上ない悲しい現実と向き合わなければならなかったことでしょうか。
台湾にあるテレサ・テンさんのお墓には、今でも供花が絶えないと聞いておりますが、本当にいつまでも人々の心に残っている歌手なのだなと改めて思います。
さて、先日発売された『週刊現代5月6日13日号』にテレサ・テンさんの記事が載っておりました。
副題に「アジアに響いた天使の歌声」とありますが、まさにテレサさんを表すのにピッタリの言葉だと思います。
懐かしいテレサの数々の写真とともに、日本のテレサの父と言われている舟木稔さん、『華人歌星伝説 テレサ・テンが見た夢』の著者の平野久美子さん、歌手のジュディ・オングさん等がテレサについて語っておられます。
テレサの人となりや、歌手としての姿勢など、テレサを知るには格好の記事となっており、興味のある方には一読をおすすめする次第です。
ところで、少し前の話になりますが、『週刊現代2019年12月28日・2020年1月4日号』にも、テレサ・テンさんの記事が掲載されました。
その記事の中で、作詞家の荒木とよひささんが語っている内容も、テレサの人となりをよく表しており、私の心に深く残っておりますので、少しご紹介させていただきます。
・・・作詞家で、『つぐない』から『別れの予感』までの4つの大ヒット曲を手がけた、荒木とよひさ氏が振り返る。「・・・彼女が最後に暮らしたパリで、僕もレコーディングに参加しました。仕事の合間にレストランで一緒に食事をしたとき、僕は生ガキにあたってしまった。点滴を受ける僕を、テレサはひと晩中、付きっきりで介抱してくれました。天使のようだった。その慈愛に満ちた姿が忘れられません。」・・・
こちらの記事の中にも天使という言葉が出てきますが、慈愛に満ちたテレサの姿は、まさに天使と呼ぶにふさわしいものだったのでしょう。
本当に生きていることが苦しい時、ただそばにいて見守ってくれる人がいるだけで、どれほど心強いことか・・・人は、その傍らで見守ってくれる人のことを天使のようだと感じるのではないでしょうか。
私も若い頃、自分の背負った宿命の重さに、何度も押しつぶされそうになりましたが、そのような経験があるからこそ、なお一層、慈愛に満ちた天使のようなテレサ・テンさんの姿を思慕し続けているのかもしれません。
世界には、戦争や貧困等の悲惨な現実と向き合いながら、日々暮らしている人々が、まだまだ多くいます。
そのような人々の苦しみ、悲しみを我がことのように受けとめ、一緒に涙しながら傍らで見守っているテレサ・テンさんの姿を知った時、私は幾度となく感動しました。
その実例をいくつかご紹介します。
あるコンサート会場に来ていた一人の女性が盲目であることを知ったテレサは、彼女の傍に行き、彼女が一緒に歌えるように耳元で歌い続けました。やがてその盲目の女性が歌い始めると、涙を流して喜んでいたテレサ・・・
また、広島平和音楽祭に参加した時、一人の老婆が、原爆によるケロイドを絶対に人に見られないようにして長年生きてきたことを知り、女性ならではの苦しみの深さに涙し、その老婆を抱きしめ続けたテレサ・・・
そして、あるテレビ番組で、テレサファンの男性が入院中にテレサの歌を聞いてとても励まされ、今は退院できたことを聞き、涙を流しながら、「よかったね。」といっていたテレサ・・・この時は、なかなか涙がとまらず、司会の方が「良くなったのだから、大丈夫よ。」となだめていました。
テレサと直接お会いしたことのない私が感動したのは、このような彼女の姿でしたが、生前のご本人と接したことのある方も次のように感じられたようです。
日本のポリドール・レコード時代のスタッフの方が、テレサについて、「慈悲の心を感じた」と言われていたことを聞いたことがありますが、身近で接していた方がそう言われるのだから、間違いないでしょう。
テレサは、天使の歌声をアジアに響かせただけにとどまらず、慈愛に満ちた天使のように生きて、私達に感動を与えてくれた方でもありました。
テレサ・テンさんの命日にあたり、こうして想いを巡らせてみると、ひょっとしたらテレサ・テンさんは地上に舞い降りた天使だったのかもしれませんね・・・
いや、きっと天使に違いありません。
※参考資料
・『週刊現代2023年5月6日・13日号』
・『週刊現代2019年12月28日・2020年1月4日号』
・平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』筑摩書房刊