あれは、今から10年ほど前、昔よく通っていた場末のスナックへ久しぶりに行った時のことでした。
場末と呼ぶにふさわしい、人通りの少ない、さびれた感じのビルの地下にあるそのスナックには、歌好きの常連客が足しげく通っていました。
今はすっかりさびれてしまったとはいえ、かつてこのスナックの近くに大きなキャバレーがあり、日本の高度成長期には、夜の社交場として連日多くの社会人が訪れ、この界隈は大変賑わっていたものでした。
しかし、やがてカラオケが流行りだすと、徐々にキャバレーへは客足が遠のいてしまい、かつての繁栄も嘘のように寂しくなり、ついに店を閉じてしまったのでした。
実は、そのキャバレーの専属歌手だったのが、私が久しぶりに行った場末のスナックのママでした。そんなこともあり、常連客は歌好きの人が多く、ママの美声を聞きたくて来るのと同じくらい、自分がカラオケで歌うことも大好きで、連日ビルの外まで歌声が響いていたのです。
ですから歌好きが集まるそのスナックでは、一人1曲歌うと必ず次の人にマイクを渡すという暗黙のルールがあり、続けて何曲も歌ってカラオケを独占することは、禁止されていました。ママは「うちのスナックは、歌好きのお客様が多いから、カラオケ独占禁止法を制定しています。一人1曲歌ったら必ず次の方へマイクを渡してください。よろしくね。」と言って、何曲も続けて歌おうとする客をたしなめていたものです。満席でも10人ほどしか入れない狭い店だったのですが、それでも次に自分の歌う順番が回ってくるまで40~50分は待つことがよくありました。
「あなたを~今夜も待って~お酒を買った(^^♪)」…還暦を少し過ぎたくらいに見える常連客とおぼしきご婦人が、年季の入った歌声を響かせていました。私は、その歌をほとんど気に留めることもなく、聞き流していました。私もカラオケで1曲歌い、やがてまたそのご婦人の順番が回ってきました。
「(^^♪)さみしく~時計だけが~時を刻むわ~♪」…私は酔っていたせいもあり、さっき聞いた歌のような感じもしましたが、あまり気に留めませんでした。そして、マイクが一巡し、またそのご婦人の順番です。
「♪お料理も~さめてしまったけれど~私は~いつまでも~待っているの~(^^♪)」…あれ、さっきから同じ曲ばかり歌っているなあ…とこの時私ははっきりと気づきました。
一体誰の曲を歌っているのかと思い、モニターに映し出されたカラオケの画面を見ていると、-『女の生きがい』♪テレサ・テン、-1975年-、作詞:山上路夫、作曲:平尾昌晃、という文字が画面に現れました。
「へえ、テレサ・テンがこんな歌も歌っていたのか。それにしてもあのご婦人、随分この歌が好きなんだなあ。何かこの歌に思い出があるのかな?」と思ったものです。なにしろ当時の私は、テレサ・テンの歌で知っているのは、『空港』『つぐない』『愛人』『時の流れに身をまかせ』『別れの予感』の5曲だけの、ごく一般的な日本人に過ぎませんでした。ですから、この曲がカラオケで唄われているのを聞いた記憶はありませんし、知らなかったのです。
それにしても、あまりにそのご婦人が『女の生きがい』ばかり歌うものだから、興味をそそられてしまった私は、次に彼女が歌った時に歌詞をよく見てみたのです。すると、愛する男性に裏切られてもなお信じ続け、つくし続け、あなたのお世話をさせてほしいの、それが私の生きがいなのよ、と訴える、実にいじらしい女心がつづられていました。テレサより少し年上とおぼしきそのご婦人の育った時代には、この歌詞に表現されているような、好きな男性にどこまでもつくし続ける女性の姿が理想像としてあったのかもしれません。
さて、そんなことがあったこともすっかり忘れていたのですが、最近になって、テレサ本人が歌っている『女の生きがい』を聞くようになり、場末のスナックで例のご婦人が何度も繰り返し歌っていた曲だということを思い出した次第です。
この『女の生きがい』(作詞:山上路夫、作曲:平尾昌晃、編曲:森岡賢一郎)は、『空港』がヒットした翌年の1975年3月21日に発売されました。当時テレサは22歳、日本へ来て1年がやっと過ぎたころで、日本語もまだ発音が正確ではない部分がありますが、その少し舌足らずの歌い方が、また実に可愛らしく感じるのです。
若い頃のテレサのファンには、中年の男性が多かったという話がありますが、私もその中年を遥かに過ぎた今になって、テレサがどれほど魅力的であるかを存分に感じています。若い頃には分からなかった彼女の魅力が、年齢を重ねるにつれ、ひしひしと伝わってくるようになってきました。
時の流れとは不思議なものです。レコードやCDの中で、『女の生きがい』を歌っているテレサの年齢は今も昔も22歳のままですが、それを聞いている私がどんどん年を重ねていくと、同じテレサの歌声なのに受ける印象が全く変わってくるのです。
この魅力を表す言葉を探すとすれば、「上品な可愛さと一途さ」とでも言ったらよいのでしょうか。それから、彼女は日本女性ではないにもかかわらず、「大和撫子のような奥ゆかしさ」も感じさせます。
そのような魅力たっぷりのテレサ・テン(鄧麗君、本名: 鄧麗筠)さんですが、ご自身の『女の生きがい』は、一体何に見いだされたのでしょうか。
1981年、テレサは財閥の御曹司である郭孔丞(ボー・クオック)と婚約しています。二人は結婚披露宴の日取りまで決めていましたが、ボー・クオックの祖母が結婚を認める条件として、テレサが歌をやめ芸能界を引退することを求めてきたのでした。
この後、何年もテレサの葛藤は続きました。普通の妻として好きな男性につくすことの幸せを選ぶのか、それとも、歌手として、アジア各国にいる数多くのファンに喜んでもらうために歌を続けるのか…
様々な資料を読み進めていくと、この頃のテレサの葛藤の深さを痛いほど感じます。好きな男性と結婚し、家庭を築くことは、一人の女性として大きな幸せには違いありません。けれども、子供の頃から大好きだった歌を完全にやめてしまうことは、テレサにはどうしてもできませんでした。
当時の日本のマネージャー(西田裕司さん)に、テレサが電話でボー・クオックと完全に別れたこと告げる場面が西田さんの著書『追憶のテレサ・テン』に書かれているので、少しご紹介します。
【…僕の自宅に、テレサから突然電話がかかってきた。電話の向こうで彼女は泣いていた。どうしたのかと聞いても、しばらくテレサはすすり泣きをしているだけだ。…中略…「何かあったのか」「……。彼と別れました」「結婚をやめたということか」「そうです」静かに、しかもはっきりとテレサは答えた。何をいっていいのかよくわからなかった。…】第1章 闘い、そして実らぬ愛 より
西田さんの著書には、テレサの日常の姿がありのままに書かれていますので、結婚を諦めざるを得なかったテレサの悲しみがひしひしと伝わってきます。どれほどの深い悲しみが彼女を吞み込んだことでしょうか。
やがて、この深い悲しみを経験し、それを乗り越えたテレサは、歌手としての黄金期を迎えることになります。一人の女性としての幸せは手に入れることはできませんでしたが、この悲しい経験を経たからこそ、より深い感動を与えることが出来る歌手へと成長できたのかもしれません。
結局、テレサ・テン(本名: 鄧麗筠)さんにとっての『女の生きがい』は、歌手テレサ・テン(鄧麗君)として、愛する世界各国のファンの皆さんに歌を届け、感動を与えることへと向かっていきました。
そして、他界してから26年もの時が流れた今でも、テレサは世界各国で多くのファンから愛され、慕われ続けているのです。
※参考資料
西田裕司著『追憶のテレサ・テン』サンマーク出版刊
平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』筑摩書房刊
有田芳生著『私の家は山の向こう』文芸春秋刊