見出し画像

テレサ・テン(鄧麗君、Teresa Teng)の残照

「偽名パスポート事件」に想う

1979年2月19日、夕刊各紙はテレサ・テンに関するある事件を報じました。
その事件の概要は、テレサがインドネシア政府発行のパスポートで日本へ不法入国し、収監され、取り調べを受けている…というものです。このパスポートは、名前が「ELLY TENG」、年齢は26歳と記され、写真はテレサ本人のものだったとのことです。
結局1週間ほど収監され、取り調べを受けた結果、「国外強制退去」「今後1年間は日本への入国を認めない」という穏便な処分に落ち着き、テレサはアメリカへと向かうことになりました。ご本人や関係者の皆さんは、この程度の処分で済んで、さぞかしほっとしたことだろうと思います。

この事件の背景にあるものとして、日本と台湾に国交がなかったことによる影響があることをお伝えしておかなければなりません。1972年9月29日に日中国交正常化が成立し、日本は台湾(中華民国)との国交を断絶することになったのですが、国交のない台湾と日本の間の出入国には、複雑な手続きが必要で、長い期間を要したようです。テレサのように海外で活躍している歌手にとって、スムーズに出入国の手続きをするためには、インドネシア政府発行のパスポートがあったほうが便利だったのです。

このパスポート事件については詳しく書くつもりはありませんが、この事件に絡んでのテレサの人となりを知る面白いエピソードがあります。平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』と有田芳生著『私の家は山の向こう』にその時のことが書かれていますので、少し紹介したいと思います。

【彼女は他のアジア諸国の不法滞在者と同房だったが、彼らが感激するほど友好的で礼儀正しく、大スターであることを鼻にかけるような態度がいっさいなかった。釈放が決まった前の晩に誰が言うともなくささやかな送別会を開くと、房内で中国語の曲を披露して世話になった御礼をていねいに述べた。彼女は取り調べに当たった入国管理局の係員からも好感をもたれ、出所のさいは、多くの人に見送られて涙ながらに飛行場へ向かったという。】-平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』 第二章 日本 ふたつのパスポート より引用

【一週間後の二月二四日、テレサはようやく自由の身となる。警備の職員たちの間では「テレサ・テンは立派な人だ」と評価が高まっていた。官給の食事は弁当屋が持ってくる。ところがお金を持っている収容者は「口に合わない」「こんなもの食べられない」と文句を言い、許可を取って高級な弁当を注文することがよくある。ところがテレサはひとことの愚痴を言うこともなく、「美味しい」と言って食べ、「御馳走さまでした」「ありがとうございます」という言葉を忘れなかった。】-有田芳生著『私の家は山の向こう』  第二章 ふたたびの より引用

不法入国の取り調べを受けるために収監された施設で、テレサの取ったような対応がはたしてできるでしょうか?取り調べる側の人間は、色々と不正を追及してくるでしょうし、不法滞在で収監されている同房の人たちは、いわばどこの馬の骨かわからない人間なのです。私のような元来人間不信が強い人であれば、きっと頑なに心を閉ざしていたに違いありません。
しかし、テレサの態度は全く違いました。彼女の謙虚で優しい人柄に触れる人々は、次々にその人柄の素晴らしさに魅了されてしまうのでした。(私もテレサの人柄に魅了された一人です)
「偽名パスポート事件」を起こしてしまったことは、決して褒められることではありません。しかしながら、結局、今回ご紹介したこの事件を通して、私が一番心に残ったことは、事件のことよりもテレサがいかに魅力的な人だったかということでした。
アジア各国で多くの人々から愛され、テレサが「アジアの歌姫」と呼ばれるに至った理由の一つは、今回ご紹介した人間的な魅力にあることは間違いないと思います。彼女が放っていた人間としての輝きは、まさに「アジアの歌姫」と呼ばれるにふさわしいものであったと言えるのではないでしょうか。

※参考資料

平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』 筑摩書房刊

有田芳生著『私の家は山の向こう』 文芸春秋刊

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る