テレサ・テンさんは、本名「鄧麗筠」(Teng Li Yun)で、1953年1月29日に台湾の雲林県龍岩村で鄧家の4番目の子供(兄が3人、のち弟が1人)として生まれました。
今生きていれば、満69歳になります。
父の鄧樞(Teng Su)は、河北省大名県出身の国民党軍の元軍人で、母の趙素桂(Chao Su-Kuei)は、山東省出身の河南省育ち、口数が少なく、穏やかな性格で、歌が好きな人でした。両親とも大陸が故郷になります。
鄧一家は、1949年に蔣介石率いる国民党軍と共に大陸から台湾へと移ってきました。
当時の台湾は、大日本帝国の統治から開放されたばかりで、大陸から逃れてきた国民党軍が新たに台湾を統治することになり、体制の大きな転換を始めるところでした。
1949年以降に国民党軍と共に台湾へ移り住んだ人は外省人と呼ばれ、それ以前から住んでいた人は本省人と呼ばれていました。本省人には、4百年以上前に福建省からやってきた人々の子孫と、約二百年前に広東省からやってきた客家人、そして漢人がやってくる以前から台湾に住んでいた南方系の原住民がいます。
そういえば昔、台湾へ旅行に行った折に、民族衣装に身を包んだ原住民の女性たちと記念写真を一緒に撮る機会がありましたが、大変きらびやかな民族衣装でした。若い女性とっては、うってつけのアルバイトだったのではないでしょうか。
さて、テレサが生まれた頃の台湾は、すでに戦後移り住んできた外省人たちが統治する国になっていました。以前から住んでいた本省人たちにとっては、後から移り住んできた外省人たちの横暴な振る舞いに嫌気が差していたようで、「犬(日本人)が去って豚(外省人)が来た」と嘆いたということです。
人口に占める割合も、外省人が約12%で、本省人たちにとっては、数が少ない外省人に支配されることに対して、より承服し難い思いが募ったのだと思います。
テレサのご両親は外省人でしたが、決して暮らしが楽なわけではなく、定住の地をなかなか見出だせずに、各地を転々としながら、生活していたようです。
テレサが、小学校の思い出を語った文章を読んでみると、外省人であるがゆえにいじめにあったことが記されています。
この事件で、テレサは心に大きな痛手を負ったのだと思います。
後年、テレサは『悲しい自由』という歌を出していますが、この歌を作詞した荒木とよひささんが、テレサの心情を慮って歌詞を書いたと言われています。
テレサは、世界各国を行き来しながら生活をし、実に自由に行動しているのですが、それでも「私には居場所がない」と感じていたのです。
「悲しい自由」という言葉は、そんなテレサにぴったりな言葉だと思います。
祖国を追われ、台湾へと移り住んだテレサの両親は、なかなか居場所が見つからず、各地を転々として生活していました。
そして、そんな両親のもとに生まれたテレサ。
テレサは、台湾で生まれながらも、外省人というレッテルを貼られ、いじめに遭い、祖国台湾にも居場所が見つからなかったのでした。
世の中には、「居場所がない」という気持ちを抱えて生きている人は、結構いるのかもしれません。
一見、安定した不自由のない生活をして、家族にも恵まれているように見える人でも、家の中では、妻には「亭主元気で留守がいい」との想いを抱かれ、娘との間には、コロナ禍で登場機会の増えたアクリル板よりも遥かに高い見えない壁が立ちはだかり、「居場所がない」と感じているお父さんも多いのかもしれません。
アジアの歌姫と呼ばれ、アジア各国で絶大な人気を誇るテレサでさえ、心のなかでは、「居場所がない」と感じていたのですから、人の気持ちは聞いてみないとわからないところがあります。
世の「居場所がない」と感じている方々は、テレサの誕生日に際し、テレサとともに本当の居場所を見つける旅に出てはいかがでしょうか。
とは言っても、実際に乗り物に乗って旅に出るのではなく、テレサの歌を聴いて、その歌の中に表現されている世界へ旅立つという意味です。
「居場所がない」という痛みを抱えていたテレサであるからこそ、その歌には、きっと「居場所がない」気持ちに共感し、癒してくれる力があるに違いありませんから・・・
※参考資料
・平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』筑摩書房刊
・『テレサ・テン 鄧麗君 没後一周年追悼展』朝日新聞社発行
・鈴木明著『誰も書かなかった台湾』サンケイ新聞社出版局刊
・1991ゼロサン11月号「テレサ・テン アジアの歌姫、流浪のスーパースターの遠い道のり」 新潮社