つらつら日暮らし

「三帰」と「三竟」の話(1)

仏教で「三帰」というと、以下の一節のように唱えるものである。

我れ帰依仏、帰依法、帰依僧。
    『長阿含経』巻15


要するに、仏法僧の三宝に対して、帰依を表明すれば、それが「三帰(三帰依)」なのである。然るに、関連して以下のような注意がされることがある。

是の如く三たび説いて三宝に敬礼す。礼し已りて語りて云く、此れは是れ三帰なり、更に三竟有り、汝、一心に受くべし。
    『略授三帰五八戒并菩薩戒』


ここで、タイトルにも関わるのだが、「三帰」が終わってから、「三竟」があるという。これについては、曹洞宗などでも用いている「三帰依文」を思うと、すぐに分かると思う。

帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。
    「三帰依文」


これが三帰に続いて唱えられるのだが、これを先の文献では、「三帰」に続いて、更に「三竟」有りと示したのである。そこで、宗門の「三帰依文」ではない別の文献で考えると、以下の通りとなる。

  第三得戒三帰品
 弟子衆等、道場人に合わせて、帰依仏両足尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊。惟だ願くは三宝、慈悲証明して哀憐摂受したまえ〈三説す〉。
 弟子衆等、道場人に合わせて、帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。我れ八戒を受けて律儀に近住す。願くは尊憶持して慈悲護念したまえ。
    『受五戒八戒文』


これなどは、まさに「三帰」と「三竟」を続けて唱えた事例として理解出来よう。これを思うと、今の宗門の「三帰依文」は、やや過剰なのではないか?と思えるようになった。なお、現在の曹洞宗で用いる「三帰依文」の出典は、『仏祖正伝菩薩戒作法』に則ったもののようだが、以下の様子となっている。

 南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。
 帰依仏無上尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊。(※ここまでが三帰)
 帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。(※ここが三竟)
    『仏祖正伝菩薩戒作法』


いつも思っていたが、1節目と2節目については重なっていた気がした。そして、先の『受五戒八戒文』に則れば、最初の「南無帰依仏」の1節目が要らないような気がするが、この辺はどうなのだろうか?

それから、「三帰」は分かるが、「三竟」は何のために唱えられているのだろうか?色々と見てみたが、ちょっと良く分からない。ただし、「三帰」の段階では、仏祖に自らの三帰を納受してくれるように願っているので、「三竟」の段階では、無事に納受していただいたことへの感謝を示すためだったということなのだろうか。もう少し、色々な文献を探って、検討する必要がある。それから、宗門では「三竟」という用語は使っていない印象がある。このことも、もう少し丁寧に検討したいが、とりあえず、この記事はここまでとしておきたい。

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