ところで、明治期に行われていた日本の仏教儀礼研究の成果を見てみると、盂蘭盆会については『日本書紀』を典拠にしつつ、推古天皇の御宇に行われたとする場合が複数見られた。そのため、典拠とされる一節を見てみた。
十四年夏四月乙酉朔壬辰、〈中略〉是の年より初めて毎寺、四月八日・七月十五日に設斎す。
『日本書紀』巻22「推古天皇」項
以上の通りなのだが、これは推古天皇14年(606)のこととされる。そして、この年、奈良や飛鳥の諸大寺に仏像が安置されたことを示すのだが、その一節の末尾に「毎寺、四月八日・七月十五日に設斎す」とあるのだが、この内、「四月八日」については説明は不要だろう。いわゆる釈尊降誕会(花まつり)に該当する。そして、「七月十五日」が「盂蘭盆会」に該当すると考えられているのだが、実はこれだけでは本当に「盂蘭盆会」であったかどうかは分からない。
そこで、「盂蘭盆会」という明確な名称が見られるのは、もう少し後の時代である。
三年秋七月丁亥朔己丑、〈中略〉辛丑、須弥山像を飛鳥寺の西に作り、且く盂蘭瓮会を設く。
『日本書紀』巻26「斉明天皇」項
女性天皇であったが、一度即位して皇極天皇となられ、その後、斉明天皇として重祚された。斉明天皇3年(657)の七月、盂蘭盆会を実施した様子が分かるわけである。よって、まずは、記録上推古天皇の時代も盂蘭盆会と見られなくもないが、斉明天皇の時代に、より、実際的な実施があったと見るのが自然であろう。
その点で、更に以下の一節も見ておきたい。
庚寅、群臣に詔し、京内の諸寺に於いて、盂蘭盆経を講じて七世の父母をして報ぜしむることを勧む。
同上
これは、斉明天皇5年(659)の一節であり、天皇が群臣に対して、都の様々な寺で『盂蘭盆経』を講義してもらって、七世の父母のために報いることを勧めたものである。経典の講義とは、経典からの功徳を得るための方法として、確立されている。具体的には「受持・読・誦・解説・書写」とあるが、この内、講義は「解説(説を解す)」に関わるものだと理解して良い。
よって、以上のことから、先祖供養としての「盂蘭盆会」が7世紀中頃には行われ、仏教がそちらの役割でも定着していった様子が分かったといえよう。ということで、この辺を掘り下げつつ、今年の盂蘭盆会正当まで学んでみたい。
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