さて、それで以前から、ハロウィンの頃になると日本に於ける仮装行事(『奇態流行史』に載る、江戸時代末期の「蝶蝶踊」)などを採り上げるサイトが増えてきた。今年もまだその記事が残っているので、色々と見てきたのだが、拙僧の知見が十分ではないので、また別の文章を見てみようと思う。
仮装会といつたなら、ソーソー井上さんが外務大臣の時、鹿鳴館で催つたっけ抔といふ人もあらうけれども、井上は、決して仮装会の本家では無い。日本に於ける仮装会の本家は、先づ豊太閤であらう。
時は文禄三年六月二十八日、太閤には朝鮮征伐のため、肥前名護屋表滞陣の砌、陣中の徒然を慰めんとて、瓜畑など広く作りなしたる処に於て、瓜屋旅籠屋を、如何にも麁相に営み、戦国育ちの荒大名共が、銘々商人の仮装をして、遊び戯れたのである。
長田権次郎『時代乃面影』裳華房・明治42年
江戸時代、太閤こと豊臣秀吉を描いた『太閤記』は複数が作られたが、最も庶民の心を掴んだのは、小瀬甫庵の『太閤記』であったとされる。実際に、甫庵のそれは史実とは言い難い内容であったが、そうであるが故に庶民の娯楽として適切だったといえる。
先に引いたのは、その中でも秀吉による朝鮮出兵時に、肥前名護屋で「瓜売り」の仮装をしたという話しなのである。そういえば、そんなこともあったっけと拙僧が思い出したのが山田芳裕『へうげもの』第9巻に於ける「瓜畑あそび」の一幕である。今思えば、『へうげもの』のその場面は、『太閤記』から採られたものであったのだろう。
これが、実際に行われたのかどうかは分からない。ただし、甫庵の記述は、さも見てきたかのように詳細で、各配役などについても記している。秀吉本人は商人姿であり、徳川家康が「あじか売り」、前田利家が「高野聖」であったなどと記されている。利家の演技は抜群だったともされている。人はどこに才能を持っているか分からないものだ。
それで、この仮装の一番良いところは、本来の立場や身分を忘れるところにこそある。本来同一の座席にいれば、必ず上下関係が生まれ、その人間関係は硬直化する。だが、秀吉はうまく行っていない朝鮮出兵時に、敢えて上下関係を取り払って遊ぶことで、改めてその一体感を生み出すつもりだったのだろうと思われる。
また、日本には猿楽や能などの文化もあったため、面を付けてその役になりきる形での仮装は、そう珍しいものでは無かったといえよう。
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