つらつら日暮らし

マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・30

ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載30回目である。

5〔30〕 自分の痛悔は確かに真実だと言う人は誰もいない。自分が十分な赦しを得ているかどうかは、それ以上の確かなことではない。
    深井氏下掲同著・21頁


分からないのは、「痛悔」という表現である。色々と辞書を調べてみたが、まず酷く後悔することという意味はすぐに分かるのだが、もう一つ、カトリック教会に於ける懺悔の儀式で、「告白の前に心から罪を悔い改めた心情を表示する」ことを指すという。

ただし、上記一節の内容としては、おそらくは前者の意味である。つまり、自分では真心から懺悔をしているつもりでも、それが真実かどうか、要するに、神に赦されているかどうかは分からないことを指している。そのため、自分が十分に神に赦されているかどうか、確信が持てないということである。

そもそも、キリスト教に於ける「赦しの自覚」とは、起きることなのだろうか?これは、門外漢である当方の勝手な理解に過ぎないが、罪は自覚出来ると思う。だが、赦しとは神を信じることであるように思う。よって、赦しの確信が持てないということは、同時に神への信仰が足りないことを意味しているように思う。

【参考文献】
・マルティン・ルター著/深井智朗氏訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』講談社学術文庫・2017年
・L.チヴィスカ氏編『カトリック教会法典 羅和対訳』有斐閣・1962年
・菅原裕二氏著『教会法で知るカトリック・ライフ Q&A40』ドン・ボスコ新書・2014年
・ルイージ・サバレーゼ氏著/田中昇氏訳『解説・教会法―信仰を豊かに生きるために』フリープレス・2018年
・田中昇氏訳編『教会法から見直すカトリック生活』教友社・2019年

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