是の如く我れ聞けり、
一時、仏、拘尸那国力士生地、阿利羅跋提河の辺、娑羅双樹の間に在り、爾の時、世尊と大比丘八十億百千人衆、前後圍遶す。二月十五日に涅槃に臨む時、仏、神力を以て大音声を出だす、其の声、遍満し、乃至、有頂まで、其の類音に随いて普ねく衆生に告ぐ、「今日、如来、応供、正遍知、衆生を憐愍し、衆生を覆護し、衆生を等視すること、羅睺羅の如し、帰依を作すは、屋舎室宅と為す、大覚世尊、将に涅槃せんと欲す、一切の衆生、若し疑う所有れば、今、悉く問うべし、最後の問いと為す」。
大乗『大般涅槃経』巻1「寿命品第一」
いわゆる大乗『大般涅槃経』の始まりの部分は、以上の通りである。そして、この段階で、「二月十五日」という字句が見えていることが確認出来るだろう。『大般涅槃経』の中国への影響は甚大であったから、当然にこのような日付もまた、大きな影響を与えたのである。ただし、二月十五日が般涅槃とするのは、意外と後代の文献である。また、上記内容を見ていただければ分かるように、釈尊は自らが般涅槃することを前提に、「最後の質問をせよ」と衆生に呼びかけている。これこそが慈悲である。
この日付に関して、以下のような問答も見える。
師子吼言わく、「如来の初生、出家、成道、転妙法輪、、皆な八日を以てす、何故に涅槃、独り十五日なるや」。
『大般涅槃経』巻30「師子吼菩薩品第十一之四」
これは、釈尊の降誕(現代なら、4月8日)、出家(『修行本起経』の説が影響?)、成道(かつては2月8日だったようだが、現代日本では12月8日で、これは禅宗の影響)、転妙法輪(日付不明)の全てが「八日」だったのに、何故涅槃会だけは十五日なのか?と聞いているのである。答えは以下の通り。
仏言わく、「善哉、善哉、善男子よ、十五日の月の如きは、虧盈無し。諸仏如来も亦復た是の如し、大涅槃に入りて虧盈有ること無し。是の義を以ての故に、十五日を以て般涅槃に入る〈以下略〉」。
同上
以下には、「満月」の功徳が11種あることを説いているが、割愛した。つまり、陰暦15日の満月の完全な形のように、諸仏如来も完全な存在だから、釈尊はその日に般涅槃した、と述べているのである。
律の本初に説くに、爾の時、仏、毘蘭若に在りて、優波離を説の首と為し、時に五百の大比丘衆集まる。何を以ての故に、如来初めて成道し、鹿野苑に於いて四諦法輪を転じ、最後に説法して、須跋陀羅を度す、応に作すべき所は已に訖りて、倶尸那末羅王林娑羅双樹の間に於いて、二月十五日の平旦時、無余涅槃に入る。
七日の後、迦葉、葉波国より、五百比丘僧と来たりて、倶尸那国に至り、世尊に問訊す。
『善見律毘婆沙』「序品第一」
以上の通り、律蔵の註釈書でも、2月15日の般涅槃について、一般的な律に説かれる釈尊伝を参照しつつ、以上のように示している。ということは、律でも2月15日説だったということか。それから、分かりにくいが、実質的な仏教教団の後継者となり、仏典結集を行った摩訶迦葉尊者は、釈尊入滅時に側にいなかったので、7日後に急いで駆け付けたことになっている。それはそれで、一つの物語があり、昨日、関連記事を書いたので、今回は採り上げないでおく。
以上のように、釈尊の入滅は、仏教徒にとって一大事であった。ただし、どの時代にも不心得者がいるもので、釈尊が細かな指導をするのを良く思っていなかった比丘は、入滅を喜んだというが、その時の様子から、摩訶迦葉尊者は仏典結集を決めたという。また、それも何かの折に関連する文脈を見る機会を得ようと思う。
今日は、釈尊涅槃会である。心から南無大恩教主本師釈迦牟尼仏大和尚、合掌。
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