つらつら日暮らし

四苦の話(令和6年度版)

今日は4月9日なので、「四苦」の話をしてみたい。

ところで、明治期より前の日本仏教で、例えば釈尊の教えがどのように語られていたかを見ていくと、現在我々が知っているような様子では無いことが分かる。縁起説や四諦八正道などは、ハッキリ言ってほとんど無いと言って良い。結局の所、大乗仏教まで含めて釈尊の直説だと思われていたのだが、そうなると阿含教系の教えは、初心者、或いは声聞向けだと判断されて、大乗仏教国となった中国や日本で積極的に採り上げる理由が無かったのである。

そのような意味で、「四苦」という用語について調べてみると、おそらく道元禅師は用いておられない。ただし、関連する概念が全く無いということではない。例えば、以下の一節はどうか?

三乗
 一者声聞乗
 四諦によりて得道す。四諦といふは、苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。これをきき、これを修行するに、生老病死を度脱し、般涅槃を究竟す。
    『正法眼蔵』「仏教」巻


ここを見て、いや「四諦」説あるではないか?と思われる方もいると思うが、ここは当然で、「声聞乗」の説明文なのだから、「生老病死を度脱」という表現があって、実質的に「四苦」を表現してはいるが、「四苦」と出てはいないのである。しかも、この時代に「四苦」という概念が無かったわけではない。

生老病死の四苦の内、生の全機と云へば、生はひろくて、老病死の三苦を生の上に置やうに聞れども非爾、生の全機といはむが如く、老全機病全機あるべし。死を五陰の離散の終と思ば、ただ終許を知也。
    『正法眼蔵聞書』「全機」篇


このように、「四苦」が語られてはいるが、宗旨としては生也全機現・死也全機現であるから、生ばかりを見てはならず、老も全機、病も全機、死も全機であると示されているのである。

人と云は、いたづらなる我等を指ては云はじ、宗門に用なる達磨西来、不立文字・直指人心・見性成仏と云人なり、この事を専門家の末流僻見に住して云には、人身は業報所成の身、五陰積聚の物なれば、生老病死の四苦に転ぜらる。
    『正法眼蔵聞書』「仏向上」篇


こちらも同様だが、ただ、こちらは批判的な引用なので、四苦をそのまま宗旨として説いているわけではない。仏向上に於いて

経云、菩薩於生死……窮劫不能尽、菩薩は生死を一向求菩提ととるなり、これ人は死すとも、心のこるべきがゆへに不能尽也といふ、この死と心と能能可心得也、世間に云凡夫の死と心とを云べきにあらず、死の一時をとき、心の一時をとく時、身心一如なれば、心ととく時は、身は死と云程の義をとりてかく云也、更慮知念覚の心、四苦のをはりの死を談ずるにあらざる也。
    『正法眼蔵聞書』「発菩提心」篇


ということで、宗旨としての「四苦」を考えるとすれば、ここに極まるかと思う。まず、「経云」として引用されているのは、『華厳経』「賢首菩薩品第八之一」である。そして、その一節を使いながら、菩薩は生死(という生まれ変わり)を、「一向求菩提」としており、人の身体は死しても「心のこるべきがゆへに不能尽也」だとしている。

そのため、ここで「死」とは、世間に於ける凡夫の死を述べているのではないという。むしろ、道元禅師『正法眼蔵』「現成公案」巻に見るように、「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり」とあるが、それを「身心一如」として把握され、身は死だが、慮知念覚の心を、四苦の終わりの死とするのではないのである。

よって、世間や声聞で「四苦」として表現される生老病死は、全機現や菩提として把握されれば、「四苦」では無くなっていくのである。いやまぁ、普通に苦を苦としなくなるために、別様の価値を付けることで、否定していくという論法だと理解すれば良いといえる。

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