大涅槃経に云うが如く、仏、迦葉菩薩に告ぐ、善男子、汝、今、応に諸声聞・凡夫人の三宝を分別するに如かざるべし。此の大乗に於いては、三帰分別の相有ること無し。所以は何となれば、仏性中に於いて、即ち法・僧有り。声聞・凡夫を化度せんと欲するが為の故に、分別して三帰の異相を説く。
『宗鏡録』巻26
これは大乗『大般涅槃経』巻8「如来性品第四之五」からの引用となっているが、あくまでも「要約文」である。それで、以上の内容は「三帰依」について、声聞と大乗とで分けている。
そこで、拙僧が気になったのは、その「三帰」の違いである。いうまでもなく、「三帰」とは「三帰戒」の言葉の通りで、戒の一部として機能したほどである。具体的には、諸戒は三帰を根本とするからこそ、受けることが可能となるという。
そして、その三帰の内容であるが、声聞や凡夫に於いては、三帰の対象である三宝は分別であるという。つまりは、仏・法・僧の三宝については、分別として把握されることを指す。一方で、大乗は三宝・三帰を分別して説かないとしている。
理由だが、大乗の場合には「仏性」中に於いて説かれることで、法と僧があるために、分別しないという。つまりは、仏性によって、仏法僧の三宝が無分別になるといえる。
しかし、では何故、三宝が分別して説かれることがあったのかといえば、声聞や凡夫を導くためであるという。つまり、大乗経典としての『大般涅槃経』の立場として、二乗などを導くという立場を大乗から説いていたということになるのだろう。そして、三宝の一体を説くというのは、仏との距離を再考するためであろう。
ついでに、この内容がいわゆる「一体三宝」と呼ばれるのであろう。
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