4 〔今ある〕自己を憎むということ(それは真の内的な悔い改めであるが)が続くかぎり、つまり天の国に入るときまで、罰は残る。
下掲同著・14頁
正直なところ良く分からない文章だ。何故ならば、「自己を憎む」とあるためだが、これを「悔い改め」であることを思うと、いわば自らの「原罪」について、悔い改めを通して否定することを「自己を憎む」と呼んでいることになる。しかも、この憎むことは、究極の救済である「天の国に入る」まで続くことになる。
ここでルターが述べていることとは、原罪に対する神からの「罰」は、天の国に入ることで許されるまでずっと続くということである。そして、「贖宥状」がローマ教皇によって「罰の代行」を認められていたが、その「不当」を訴えるものでもある。
つまりは、ルターは人間に謙虚に生きるように説いていることも分かる。それは、神や自らが持っている罪、そしてそれをあがなうべき罰についてである。そして、神は必ずお許し下さるはずだという信念もまた求められることとなるから、その神の教えに従うべきだということが、自ずと導き出される。
ここで、いわゆるのキリスト教者の生き方が定まるのである。
【参考文献】
・マルティン・ルター著/深井智朗訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』(講談社学術文庫、2017年)
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