拾得、国清にて半月に念戒する衆集するを見る。拾得、拍手して云く、頭を聚めて作想す、那の事をか如何。
維那、之を叱る。
得云く、大徳且く住す。瞋無ければ即ち是れ戒、心浄なれば即ち出家なり。我れ即ち你と合し、一切の法に差無し。
『聯灯会要』巻29「応化賢聖」
まず、これは中国唐代にいたとされる伝説の詩僧、寒山・拾得の拾得についての逸話である。拾得が、中国天台山の国清寺にて、半月に一度「念戒」するために、修行僧が集まっている様子を見たという。この「念戒」とは、半月に一度行われていることから、いわゆる「布薩」であることが分かる。
そこで、布薩をしている僧侶たちを前に、拾得は拍手して自分に注意を向けさせてから、「みんなで頭を集めて何を考えているのか?」と尋ねたのである。
しかし、布薩しているのを邪魔しているので、儀式を取り仕切る維那が拾得を叱った。
すると、拾得はその維那に対して、「大徳(維那への敬称)は、しばらくこの寺に住している。しかし、怒りが無ければそれこそが戒であり、心が浄ければそれを出家という。つまり、大徳は今、私を叱って怒りを向けたのだから、この私と貴方とは全く同じであって、一切の法において違いが無い」と看破したのである。
要するに、拾得のような自由奔放な存在に対して、儀式を守ろうとする立場から怒りを発した段階で、その揚げ足を取られた感じではある。しかし、最も離れるべき三毒である瞋恚にとらわれてしまったということから、布薩の状況に於いての怒りの表出は、やはり安易に過ぎた感じではある。
こういう遣り取り、寒山にも拾得にも、良く見られるところではあるが、要するにダブルスタンダードへの批判という観点で採ると、分かりやすいかもしれない。
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