当に戒経を奉持して、当に缺犯せざるべし。
五戒を持つ者は、還りて世間に生じて人と作る。
十善を持つ者は、天に生ずることを得る。
二百五十戒を持つ者は、現世に阿羅漢・辟支仏・菩薩・仏の泥洹大道を得べし。
『仏説恒水経』
ここで出ている五戒・十善戒・二百五十戒は、それぞれ役割や機能が違っている。具体的には、五戒とは在家者にとっての戒律であるけれども、それを守った功徳としては、また人間界にて生まれ変わることになるとしている。
一方で、十善戒というのは、出家・在家に関わらず守るものともされ、いわゆる身口意の三業についての持戒だが、これを守る場合には天の世界に生ずるとしている。いわゆる神の仲間入りということだが、別の教えでは転輪聖王になるとしている場合も見られる。
最後の二百五十戒とは、具足戒(声聞戒)であるが、これを守ると、現世に於いて阿羅漢(声聞)・辟支仏(縁覚)・菩薩(菩薩)そして、仏の涅槃大道を得るという。
そうなると、最後の二百五十戒については、大乗仏教などが定めた三乗の区分を超えて、或る意味で、一乗的な解釈されていることになる。それほどに、二百五十戒というのは、機能的に期待されるところが大きいのだろうか?
個人的に色々と調べてみたが、ここまで明確に書いてある文献は他には見つけきれなかった。とはいえ、探し方が悪い可能性は十分にあるので、これはまた、今後の課題としておきたい。
それから、もう一点気になったのは、よく以前から「二百五十戒とは『四分律』における比丘戒」という風に習ったのだが、これを見る限り、どうも、阿含部の経典の中に既に「二百五十戒」という定型句が存在した可能性が見られる。これをどう理解すべきかが個人的な課題として残った。いや、もちろん、先行研究があるのかもしれない。或いは、単純に『四分律』の影響下にある部派で伝えた阿含経典ということなのだろうか。
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