さて釈迦は其うちにしきりに大病に成り、これはとてもいかぬことゝ覚悟したる事と見へて、自ら法服をぬいで裹で、それをしひて其上に右脇に伏して〈長阿含経〉、ひごろ手なれし持たる所の鉢と錫杖をば阿難に付嘱し〈処胎経〉、諸の比丘どもに云には、諸善男子よく其心を修して、したきまゝの放逸をいたすこと勿れ。我今背の疾ひにて総身いたくてたまらずと云て苦しむ〈ねはん経〉。そこで諸の比丘らが何故に一劫も半劫もこの世におわして、我等を教導なされぬのじやといつたる処が、釈迦がいふには、わが無上の正法は悉く已に迦葉にふぞくして在程に、わが如く其方どもを教導するであらふと云て、とんとまづ死だでござる〈統記〉。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』80頁
これまでも、篤胤が参照していた文献の確認をしてきたけれども、ここは一節ごとに典拠が示されている。よって、確かめておきたい。
・・・いきなり最初の『長阿含経』で躓いた。え?典拠はどこだ?何となく『遊行経』だと思ったけど、篤胤の話に直接該当する文章は無い。そして、次の阿難尊者へ「鉢と錫杖」を付嘱した話の典拠を調べたら、以下の通りであった。
二月八日の夜半、躬自ら僧伽梨・鬱多羅僧・安陀羅跋薩、各おの三牒を襞みて金棺の裏に敷き、襯身を上に臥し、脚脚相累ぬ。鉢・錫杖を以て手づから阿難に付す。
『菩薩従兜術天降神母胎説広普経』巻1「天宮品第一」
篤胤が『長阿含経』といっているところも含めて、『処胎経』から引いたもので間違いなさそうだ。それから、釈尊が発病後、背中が痛いと発言したのは事実であろう。『遊行経』などにもある。ただ、ここで篤胤が引いたのは『ねはん経』とあるため、以下の文脈であろう。
爾時世尊、文殊師利と迦葉菩薩及び純陀を以て、而も記莂を受(※授に同じ)く。記莂を受け已りて、是の如く説いて言わく、「諸善男子、自ら其の心を修し、慎んで放逸なること莫れ。我れ今、背疾む、体を挙せば皆な痛む、我れ今、臥せんと欲す。彼の小児及び常患者の如し。汝等、文殊、当に四部の為に広く大法を説く、今、以て此の法を汝に付嘱すべし。乃至、迦葉、阿難等来たれ、復た当に是の如く正法を付嘱すべし」。
『大般涅槃経』巻10「一切大衆所問品第五」
なお、以上の通り、本来は正法の付嘱まで示されているのだが、そこは引用せずに、結果として以下の文章を必要としている。
仏、出世常楽我浄・世間四顛倒法を説く。諸比丘言わく、如来永く四倒無し。常楽我浄を了知す。何故にか一劫・半劫も住せず。我等を教導して四倒を舎離す。仏言わく、我れ今所有の無上正法、悉く已に摩訶迦葉に付嘱す。当に汝等の為に大依止と作す。猶お如来の如し〈云云〉。
『仏祖統記』巻4「教主釈迦牟尼仏本紀第一之四」「入涅槃」
篤胤が引いたのはこの箇所である。つまり、無上正法を摩訶迦葉尊者に付嘱していたので、今後は迦葉尊者を大依止(就くべき先生)にすべきだというのである。それは、如来のようなものだとするほどなので、釈尊は遠慮無く入滅したという流れとなっている。しかし、上記の通り、かなり後代の文献などを合揉して、その入滅の様子を示すので、正直分かりにくい。
それに、こういった「操作」などを通して、篤胤自身の主張を織り交ぜていくつもりなのだろう。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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