そこで、今日は道元禅師の教えから、「お香」について論じられた箇所を学んでみたい。
・受者、先ず教授師の寮に到り、先ず教授に問訊し罷りて、右手にて香を上り、香炉に挿む〈沈香・箋香等の小片を焼くなり〉。
『仏祖正伝菩薩戒作法』
・威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈・箋香等を帯して参ずるなり。
『正法眼蔵』「陀羅尼」巻
前者は、宗門室内行持の1つだが、「仏祖正伝菩薩戒」を師資相伝する際の作法の中に出て来る一文である。その中に、教授師という授戒には欠かせない師の1人に対して礼拝する場面や、後者は善知識に対する礼拝を行う時の威儀だが、ともに道元禅師は丁寧な作法と、その時に焚くべき「お香の種類」を提示されている。
名前として挙がっているのは、「沈香・箋香等」である。沈香は現在でも良く用いられる名香であるし、箋香もまた名香として知られている。それは、拙僧が云々するというより、道元禅師御自身がそう仰っている。
手炉には、沈香・箋香等の名香をさしはさみ、たくなり。この香は、施主みづから弁備するなり。
『正法眼蔵』「看経」巻
施主が、入堂して僧衆に対し供養をする場合の方法を示された一文である。現在でも施主巡堂として残っている作法だが、この中で道元禅師は、沈香や箋香を「名香」と定義している。実際その通りだが、それを「施主」が自ら用意すべきだということからは、決して、庶民には出来ない芸当のように思うが、転じて、この施主による供養は、大檀那クラスの、経済的な有力者相手に求めていることが分かる。
そういえば、どこかの化粧品メーカーで、洗顔の後に化粧水を塗るのは、実は道元禅師がお伝えになった、という話をしている会社があるそうだ(実際には知らない)。道元禅師が伝えたか否か、拙僧は判断できないが、道元禅師が洗面の際に何かを用いていたのは事実である。
耆年宿徳の草庵、かならず洗面架あるべし、洗面せざるは非法なり。洗面のとき、面薬をもちいる法あり。
『正法眼蔵』「洗面」巻
このように、「面薬」という、今でいうところの化粧水、或いは手荒れ薬のような物を用いていた様子が分かる。肌荒れや乾燥を抑え、綺麗な肌を保つための薬と見て良いのではなかろうか。なお、今では修行道場にて水を使って洗面している場合があるそうだが、道元禅師は洗面には極力お湯を用いるべきだとされる。
そののち、もし後架ならば、面桶をとりて、かまのほとりにいたりて一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく。もし余処にては、打湯桶の湯を面桶にいる。
「洗面」巻
これは、雲堂(僧堂)の裏にある後架という洗面所に行くときに、お湯を汲むべきことを示した一文である。「かまのほとり」とあることから、朝の早くに当番になった者(いわゆる行者)がお湯を用意していたのである。しかし、常にお湯や水が手に入る環境ばかりではない。僧侶は、行脚して何日も野宿することは珍しくない。その場合の方法が以下に示されている。
おほよそ嚼楊枝・洗面、これ古仏の正法なり。道心弁道のともがら、修証すべきなり。あるひは湯をえざるには、水をもちいる、旧例なり、古法なり。湯水すべてえざらんときは、早晨よくよく拭面して、香草・抹香等をぬりてのち、礼仏誦経、焼香坐禅すべし。いまだ洗面せずば、もろもろのつとめ、ともに無礼なり。
「洗面」巻
このように、歯磨きと洗面は、古仏の正法であるとされる。しかし、お湯がないときには水を用いることを示され、それも無いときには、朝によくよく顔を拭いて、更に「香草・抹香等」を顔に塗らねばならないとされる。浄めないことは、礼仏するときなどに「無礼」だからである。清潔であるか否か?という潔癖さが問題なのではなく、仏祖に対して礼を失するか否かが問われている。仏陀に対して香を捧げることは、インド以来の伝統である。よって、香の薫りを無視し、不潔な臭いを発して修行することは認められていない。
つぎに、手巾を左臂にかけて塗香す。公界に塗香あり、香木を宝瓶形につくれり。その大は、栂指大なり、ながさ、四指量につくれり。繊索の尺余なるをもちて、香の両端に穿貫せり。これを浄竿にかけおけり。これを両掌をあはせてもみあはすれば、その香気おのづから両手に薫ず。
『正法眼蔵』「洗浄」巻
これは、手洗い法である。手洗いが終わったら、その手に香の薫りを移さねばならない。そのためにわざわざ「公共(公界)の塗香」まで用意されている。誰でもすぐに使えるように、手洗い所の近くに瓶の形に削られた香木がぶら下がっている。それを両手でもみ合わせれば、手に香りが移る。全身を薫りで溢れさせねばならない。
〈浣袈裟法〉
袈裟をたたまず、浄桶にいれて、香湯を百沸して、袈裟をひたして、一時ばかりおく。またの法、清き灰水を百沸して、袈裟をひたして、湯のひややかになるをまつ。いまは、よのつねに灰湯をもちいる。灰湯、ここには、あくのゆ、といふ。灰湯さめぬれば、きよくすみたる湯をもて、たびたびこれを浣洗するあひだ、両手にいれてもみあらはず、ふまず。あか、のぞこほり、油、のぞこほる、を期とす。そののち、沈香・栴檀香等を冷水に和して、これをあらふ。
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻
高貴な薫りを発すべきことは、決して自分の身心のみならず、袈裟を始めとする着衣でも例外はない。上記に示したのは、袈裟の洗い方を示したものである。袈裟を洗う場合には、まず沸かした「香湯」に袈裟を浸し、2時間ほど置くか、灰汁を使う。そして、徹底して我々の皮脂などを取り除くことを目指して洗い、然る後に、沈香や栴檀香といった、これまた高価な香を水に溶かしたもので洗う。これは、薫りを付けるためである。
それ三沐三薫すといふは、一沐とは一沐浴なり、通身みな沐浴す。しかうしてのち、つねのごとくして衣裳を著してのち、小炉に名香をたきて、ふところのうち、および袈裟・坐処等に薫ずるなり。しかうしてのち、また沐浴してまた薫ず。かくのごとく三番するなり。
「洗面」巻
三沐三薫というのは、道元禅師が示されているように、身体を浄める方法として沐浴と、更に着衣に香の薫りを付けることである。なお、沐浴もただ身体を洗うだけではなく、同じ「洗面」巻には「身心を澡浴して香油をぬり」(この一文の典拠となったのは『妙法蓮華経』「安楽行品」)とあるため、身体にも香油を塗って薫りを付ける。しかも、その一連の動作を一回だけではなくて、3度繰り返せ(本文では「三番」)とされている。道元禅師は、これらの行法を経律に典拠を求め、そして『正法眼蔵』「洗面」巻が編まれていることを思うと、まさに仏行として説かれていることを自覚しなくてはならないと思う。
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