つらつら日暮らし

「折伏」すべきは一体何か?

釈尊涅槃会を前に、『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学ぶ時期としているのだが、或る文脈に気付いた。

 心の畏るべきこと毒蛇・悪獣・怨族よりも甚だし。大火の越逸なるも、未だ喩えとするに足らず。譬えば、人有り、手に蜜器を執って、動転軽躁し、ただ蜜のみを見て、深坑を見ざるがごとし。また、狂象の鉤無く、猿猴の樹を得て、騰躍跳躑して禁制すべきこと難きが如し。まさに急やかにこれを挫いて放逸ならしむること毋るべし。
 この心を縦にすれば、人の善事を喪う。これを一処に制すれば、事として弁ぜずということなし。
 この故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏すべし。
    『遺教経』


ここで、「折伏」すべきだといわれているのは、「比丘の心」である。修行者の心である。つまり、恣に活動しがちな心を、良く統御するように説いている。そして、そこに「折伏」という訳語を用いているのである。折伏とは、いたずらに相手にのみ向かうことではない。ただ、統御するということである。

しかし、心は恐れるべきこととして、毒蛇・悪獣・怨族よりも更に恐ろしいとしている。この一節について、以下のような註釈がある。

調柔不動三昧相は、経の「当勤精進折伏汝心」の如き故に。
    天親菩薩『遺教経論』


さて、この「調柔不動三昧相」について、「三昧相には三種有り」ということで、「一つには無二念三昧相、二には調柔不動三昧相、三には起多功德三昧相」とある。上記の一節は、この「三昧相」の一種が、「当勤精進折伏汝心」だと述べており、それと経文とを対応させているのである。

ところで、本書で示す「三昧相」は、本書でしか見えない。同じ意味の異訳がある可能性まで否定しないが、意味から調べてもこの3つが1つになっている様子は、他には無い。そこで、疑問として残るのは、その「三昧相」が本経典に合わせて作られた可能性である。この辺は、経典に対する古い註釈の「作り方」の問題なのだが、結果として三昧の内容の把握が困難だという課題が残る。

今回の記事の主眼は、「汝が心の折伏」についてである。つまり、自分自身で自分の心を、しっかりと統御することが求められている。その内容が「調柔不動三昧」と表現されることに、強い興味を持つのだが、残念ながらこれ以上、記事を深めようが無かった。

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