大科第十一 正受戒
問うて曰く、夢は或は半時に過ぐべからず、或は一時乃至三時なり。然に何ぞ、浄土一宗の教相及び数多の戒法を伝し乎。
答えて曰く、彼の阿須輪陀王の如には、夢に七万六千仏の出世に値ひ、七万六千仏を供養するの間、無量劫を逕歴す、寤に前には但だ半時なり。聖能梵志が夢の中に七生を過ぐ。若干の劫数なれども、覚前には纔に一時なり。設ひ半時なりと雖も、睡夢の前には、即ち多時なり、多日なり。浄土の教相、并に一乗の戒法を伝しに、何れの不足が有る乎。是の如く、或は夢中、或は覚前に、戒を相伝するに依て、得る所の功徳、性に約して、本有恒沙の功徳と名づけ、相に約して、発得戒と名づく。
『続浄土宗全書』巻15・81頁、訓読は原典に従いつつ拙僧
まず、夢が半時なのか、一時乃至三時なのか?という話は意味不明。註釈書も余程分からなかったのか、採り上げるべき指摘は無いように思う。それから、「彼の阿須輪陀王」の話は典拠不明。いわゆる阿修羅王の話なのだろうが、良く分からない。ただ、「七万六千仏の供養」の話は、幾つかの仏典に見えるが、上記内容と一致する文献は見付けられていない。
それから、「聖能梵志」の話も良く分からない。
ただし、上記内容としては、現実には半時(一時間)などであっても、夢中では多日を経ることもあるため、結局は多くの事柄が伝授されることもあるという話なのである。
つまり、夢中であっても相伝された戒なのであれば、その功徳は本質的には「本有恒沙の功徳」であり、その様相からすれば、「発得戒」だとしている。つまり、相伝戒を要として、そこから「発得戒」に展開する教義を見出したのである。
【参考資料】
・宗書保存会『続浄土宗全書』巻15、大正14年
・浄土布薩式(新編浄土宗大辞典web版)
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