今回は以前に【今日は体育の日(平成30年度版)】で見たように、明治時代に入って「体育」という用語が出来てきた様子が分かるのだが、【今日は「建国記念の日」(平成24年度版)】で紹介した三宅雪嶺が「体育」について論じているので、以下に紹介したい。
体育
体育といふも、精神を等閑に附すべきに非ず、自ら武徳の鍛ふべきものあり、武徳といふも、単に旧習に拘泥すべきに非ず、以て当代の教育に補ふ所あるを要す。故に若し国民に教育的運動を励まし、武徳的精神を養はなしむべき必要ありとせば、両者宜しく共に之を勉むべし。
運動会に秀づる者は日課を怠るの少からず、或は試験に落第し、否らざれば欠席し、籍を学校に措いて運動を課業とする状あり。学校の成績不良なるを以て、精神の健全ならざるを断定し難く、却つて社会に立ちて大に活動する無きに非ざるも、普通の順序として決して称するを得ず。
従来の運動は単に運動其物を観て他を顧みず、善く棒を杖きて高飛びし、善く鞠を打ち、善く疾走するを旨とするも、如何にして身体を健全にすべきか、如何にして精神の健全に及ぼすべきかを忘れ、復た此類の事に思ひを致さゞるの失あるのみ。苟も体育を念とする者は斯くして已むべきに非ず、宜しく身心全体の上より注視し、善く気候に堪へ、疾病に犯されず、相応に精神を働かし得るやう心掛けざるべからず。
三宅雪嶺『三宅雪嶺修養語録』新潮社・大正4年、321~333頁
三宅雪嶺(1860~1945)は、政教社での活動に於いて国粋主義を説いた。しかし、国粋主義には様々な段階があり、三宅が説いたころのそれは、日本独自の生活や文化を見直し、欧米から来る文化・文明については、主体的に選択をしていく立場を説いたものであって、いわゆるの偏狭なナショナリズムと同一化することは困難である。
そういう視点からいうと、上記の一節についても同様で、これも、明治に入り欧米から導入された教育理念である「体育」について、日本的立場を重ねていることになる。
それはつまり、体育については身体の鍛錬に加えて精神の鍛錬を論じているが、それの意義を「武徳」と表現している。これは「武」としての徳であるが、その字の本義とは、「矛を持って止(すす)む」ことであることからすると、どこまでも身体の健全を中心に考えていることは明らかである。
しかし、三宅は敢えて、精神の健全を説いた。そして、その理由には、「運動会に秀づる者」が「日課」を怠るためであるという。この辺は、運動に優れた者が、必ずしも学校の筆記試験の成績が伴わない様子が、当時から確認出来たことを意味していよう。
だが、三宅は「身心全体」という言葉を用いながら、身体と精神との両方を鍛錬することを説いた。この辺は、身心合一する東洋思想の極致であるともいえる。つまり、今日という日は、「体育の日」でありながら、実は「身心育の日」でなくてはならないということになる。
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