大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)には、古い伝記資料として、『伝光録』『三祖行業記(三大尊行状記)』や『洞谷記』「洞谷山伝燈院五老悟則並行業略記」などがあり、それよりも後の時代に作られたものとして、『建撕記』の一部に伝記が見える。
そこで、懐奘禅師の伝戒・伝法などについては、次のような記述がある。
師、元公の伝法し、帰朝して建仁寺に寓止するを聞きて、往きて論談・法戦す。長処有ると知りて、心を帰して信伏す。
遂に、元公の住庵するを聞きて、文暦元年甲午冬、深草に参じて衣を改む。
次年八月十五日、仏祖正伝の戒法を伝授さる、達磨の二祖に授くる儀なり。
有る時、元公、「一毫衆穴を穿つ」の因縁を挙似す。師、言下に於いて大悟し、礼拝す。元、問う「礼拝の事、作麼生」。師曰く、「一毫は問わず、如何なるか是れ衆穴」。元、微笑して曰く、「穿ち了れり」。師、即ち礼拝し退く。元公、大悦して、真の法嗣と為す。
『三大尊行状記』、『曹洞宗全書』「史伝(上)」巻・14頁、訓読は拙僧
以上の経緯である。それで、この通りの内容であったとすれば、実は特段大きな問題にはならない。それは、大悟の時期などが不明だけれども、文暦2年の伝戒が、達磨の二祖に授くる儀だとすれば、この段階で法嗣になったことは明らかだからである。大悟はその前の何時かであったことなのだろう。
なお、ここでいわれている「一毫衆穴を穿つ」の因縁については、道元禅師が自ら編集した『真字正法眼蔵』上85則に見えるため、もしかするとそれを用いた提唱などがあったのかもしれない。その場に於いて悟り、礼拝して、道元禅師は「真の法嗣」として認めたということになる。なお、「仏祖正伝の戒法」については、『仏祖正伝菩薩戒作法』を用いたものだと思うが、同書の「血脈授与」の箇所を見ると、実質的な「嗣法」であったことが明らかであるから、先にも述べた通り、この「文暦2年8月15日」というのが、懐奘禅師が実質的に正嫡に充てられた時期と見るべきだろうか。
ただし、例えば、拙僧が拙Wikiに作っている「日本曹洞宗史略年表」などを見てもそうなのだが、懐奘禅師の大悟は嘉禎2年(1236)であるともされる。その理由は、以下の文脈が知られるためである。
然るに元和尚、深草の極楽寺の傍らに初て草庵を結で一人居す。一人の訪らふなくして両歳を経しに、師即ち尋ね到る。時に文暦元年なり。元和尚歓喜して即ち入室を許し昼夜祖道を談ず。稍や三年を過るに今の因縁を請益に挙せらる。
『伝光録』第52祖章
ここを見ると、文暦元年に懐奘禅師が道元禅師を訪ねるところまでは一緒だが、「三年を過」ぎた時に、「一毫衆穴を穿つ」の因縁を採り上げたというのである。そうなると、文暦元年を「1」と数えて、嘉禎2年という話となり、そうなると、先に挙げた通りで、文暦2年の伝戒よりも後の事態となってしまうのである。それで、実はそれなりにこの年号というのは、整合性を取ろうという意図も隠れているように思う。
1235年(嘉禎元)
8月15日、懐奘禅師、道元禅師から伝戒。
冬至日、道元禅師『真字正法眼蔵』序を書く。
1236年(嘉禎2)
10月15日、興聖寺を開堂して集衆説法。
同年 懐奘禅師が道元禅師から「一毫穿衆穴」の話を聞き大悟。 (※この時期か?)
同年 除夜に懐奘禅師を拝請して興聖寺最初の首座とし、秉払させる。
このように、『真字正法眼蔵』の序を書いたのは、懐奘禅師の伝戒後である。また、1236年に大悟を持ってきたのは、「秉払」直前に置こうという意図もあってのことであろうか(『建撕記』はその見解)。だが、拙僧つらつら鑑みるに、これらの記述はやはり問題となる。つまり、懐奘禅師の大悟は、『三大尊行状記』に年号が書かれていないことにも繋がるが、まずは伝戒の後だったと思われる。それから、「秉払」については、興聖寺の開堂がなければ意味がないことだから、当然にこの時期に、というのは意味がある。
以上、まとまりのない記事ではあるけれども、以上の通り、懐奘禅師の伝記を考えてみた。これは同時に、道元禅師が会下の者にどのように伝戒などを行っていたか、という意義を探るものでもあるので、軽々には出来ないのである。
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