監寺・典座を請する上堂。
知事は乃ち三世諸仏の護念する所なり。
難陀尊者の勝躅、沓婆尊者の勤修なり。
『永平広録』巻2-139上堂
道元禅師は、大仏寺(後の永平寺)に入られてからというもの、いわゆる知事を中心にした叢林運営を進めようとされ、上記のような知事を請する上堂、或いは知事の退任に因んで謝する上堂などが見られるようになる。併せて、『永平寺知事清規』を著し、叢林に於ける正しい知事の心持ち、振る舞い方、一部では作法などを示された。
更に、『永平広録』中の知事の話を見ていくと、多くは『知事清規』と重なるが、『永平広録』独自のところもあるため、晩年の知事に対する考えを見ていく場合には、『永平広録』と『永平清規』とを併せて見る必要があるのである。今回の記事も、そうした考えに基づく1本といえる。
しかも、拙僧、何度も『永平広録』を全部読みしているはずなのに、今回見ていく沓婆尊者については、すっかりスルーしていた。よって、改めてこの方について調査してみようというわけである。なお、この沓婆尊者について、道元禅師は『永平清規』では一度も言及されておらず、しかも、先に挙げた上堂でも、この「沓婆尊者の勤修なり」という部分しか言及されていないため、良く分からないのである。
ということで、まずはこの沓婆尊者だが、『律』では、沓婆摩羅子とも記載される比丘であり、註釈書である『善見律毘婆沙』巻13では、「沓婆、是れ比丘の名、摩羅子、是れ王の名なり。此の王子出家するが故に、沓婆摩羅子と名づく。此の大徳、年七歳にて出家し、剃髪落地して即ち羅漢を成じ、三達智を得、六神通・四無礙弁を具え、一切の声聞の知る所、通達せざること無し。羅漢の中、已に是れ第一なり」という評価があるほど優れた比丘だったらしい。
しかし、そうであるが故に、どうも、他の比丘から妬まれることもあったようで、『律』を見ていくと、この沓婆尊者と慈地比丘という人の間でいざこざというか、慈地比丘の嫉妬のせいで沓婆尊者が陥れられて、「十三僧残」の1つである「第八無根謗戒」が制定される原因になったようである。この戒は、他の比丘が波羅夷罪を犯していないのに、それをでっち上げた時に適用されるものである。慈地比丘という人は、自分の妹である慈比丘尼の名前を使って、沓婆尊者との関係を、事実無根であるにも関わらず世尊に告げ口したのであった。また、「第九仮根謗戒」でも、やはり慈地比丘は、沓婆尊者のことを悪くいうために、羊の交尾の話を、沓婆尊者と妹の慈比丘尼の話という風に変えて言いふらしたとされる。よって、問題をすり替えて悪口にすることが禁じられたのであった(これは、『四分律』巻3・4辺りを参照)。
なお、この辺はもちろん、沓婆尊者が知事になっているからこそ問題になっているのだが、戒の本質は比丘同士の関係性に由来するので、知事の記事としてはどうか?と思っていたら、もう一つ、「九十波逸提法」に含まれる「第十三嫌罵知事戒」もまた、沓婆尊者と慈地比丘との間で起きたものだったらしい。
これは、知事に関係もあるので、原文も見ておきたいが、その前に、南山道宣『四分律比丘含注戒本』巻中では、「仏、羅閲城に在り。沓婆摩比丘、僧の知事に差わす。慈地比丘、眼見する処を斉(かた)り、之を譏嫌して、過を以て仏に白す。便ち訶して制戒す。後に便ち罵する処を聞き、過を以て重ねて仏に白す。便ち乗じて前の制に重ぬ」などとあって、どうもしつこくストーカー的に悪事をでっち上げて告げ口したようである。それでは、この件に該当する原文を見ると、以下の通りである。
爾時、世尊、羅閲城の耆闍崛山中に在り。時に尊者沓婆摩羅子、衆僧の差(つか)わす所と為す。僧の坐具及び差僧食を知(つかさど)る。
時に慈地比丘、其の中間に相い去りて、眼の見て、耳の聞かざる処を斉り、自ら相い謂いて言く、「此の沓婆摩羅子、愛有り、恚有り、怖有り、痴有り」。
余の比丘、語りて言く、「此の沓婆摩羅子、衆僧の差わす所と為りて、僧の坐具及び差僧食を知る。汝等、『彼に愛有り、恚有り、怖有り、痴有り』と説くこと莫れ」。
慈地比丘、報じて言く、「我等、面説せず、屏処に在りて譏嫌するのみ」。
爾時、諸もろの比丘聞きて、其の中に、少欲知足にして、頭陀を行じ、戒を学せんと楽い、慚愧を知る者、慈地比丘を嫌いて言く、「此の沓婆摩羅子、僧の差わす所と為り、僧の坐具及び差僧食を知る。云何が汝等、『彼に愛有り、恚有り、怖有り、痴有り』と言うや」。
時に諸もろの比丘、往いて世尊の所に至り、頭面礼足して一面に坐る在り。此の因縁を以て具さに世尊に白す。
世尊、即ち此の因縁を以て比丘僧を集め、慈地比丘を呵責して、「汝、非と為す所、威儀に非ず、沙門の法に非ず、浄行に非ず、隨順行に非ず、応に為すべからざる所なり。
云何が慈地比丘よ。沓婆摩羅子、僧の差わす所と為り、僧の坐具及び差僧食を知る。汝等、云何が嫌って彼を責めて、『愛有り、瞋有り、怖有り、痴有り』と言うや」。
世尊、無数の方便を以て慈地比丘を呵責し已りて、諸もろの比丘に告げ、「慈地比丘、痴人なり。多種の有漏なる処、最初に犯戒す。自今已去、比丘の与に結戒す。十句義乃至正法を集めて久住せしむ,戒を説かんと欲する者、当に是の如く説くべし。
若し比丘譏嫌すれば、波逸提なり」。
是の如く、世尊、比丘の与に結戒す。
『四分律』巻12「九十単提法之二」、訓読は拙僧
要するに、世尊が沓婆尊者を衆僧のために遣わし、「僧の坐具及び差僧食を知(つかさど)る」とあるため、僧の坐具について調えたり、或いは差僧食(僧食を差わす)を知ったとされる。いわば、「知(つかさど)る」役職だったので、後代、「知事」という位置付けがされたことが分かる。そういう中で、慈地比丘が沓婆尊者を嫌い、耳にしたことが無いことをでっち上げて、この尊者には、えこひいきや性格的な問題があると告げ口したのである。
しかし、それを他の比丘達に話したところ、その中でも良識ある者が、沓婆尊者の精勤ぶりを褒めつつ、悪くいうものではないと、慈地比丘のことを批判し、他の比丘達と一緒にこの経緯を世尊に説明したところ、世尊は慈地比丘を叱り(「無数の方便を以て慈地比丘を呵責」したとあって、一体どうやって叱ったのかな?と怖くなった(;゜ロ゜))、他の知事のことを悪くいうことを禁戒にしたのである。
そして、先の本文には更に、慈地比丘が聞いたことがあって、見たことが無いことをでっち上げて沓婆尊者を悪く言い、更に戒律の内容が厳しくなった様子が記されているのだが、それは割愛しておきたい。
なお、『四分律』を見ても、沓婆尊者が直接知事だったとは書いていない(「知る」とあるので十分ではあるが)が、先に見た通り南山道宣も、或いは後代の霊芝元照もともに、「沓婆尊者は知事になった」と書いているので、道元禅師もそれら、『四分律』系の註釈書を見ながら、先に挙げた上堂を実施されたのだろう、ということを述べて、簡単ではあるがこの記事を終える。
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