つらつら日暮らし

十六条戒の組織的理解について(1)

江戸時代の学僧・指月慧印禅師は、十六条戒を組織的に理解しようとしていた。

  戒次
 一切平等の法、能く次第を作す。
 蓋し厥の初め、信解立ちて三帰出づ。
 三帰出でて三聚見る。
 三聚見るが故に十戒乃ち成る。
 乃ち十戒大成するに迨び、諸戒の相総て見ゆ。此の中の次第、明鏡面の如し。思惟を用いず、信を立て、帰を象り、聚を備え、十に止まる。
 而して十の模、三聚に在り。
 聚の体、三帰に会す。
 是の如く、向下通利、向上会帰なり。
 次の不次、不次の次、先ず仏、是の如く伝え、仏の如く祖も亦然り。祖の如く今亦順ず。
 夫れ唯だ順ずべし、以て伝脈と為す。
    『禅戒篇』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・239頁上段、訓読は拙僧


この一節の前提となっているのは、最初の1行である。つまり、一切平等の法であるけれども、よく次第をなすということである。平等でありながら、次第が自ずと起きていくというとき、それは、単純な上下関係というのでは無いし、各々は平等なのだが、そこに機能の分化が生じていることを意味している。

そこで、宗門の「十六条戒」とは、その内容を「三帰戒・三聚浄戒・十重禁戒」としているわけだが、それぞれの機能や、相互の関係について考えたのが、上記内容なのである。

まず、戒を受けることの前提にあるのは「信解」である。仏道への信を起こしている者が、戒を受けるのである。仏道への信を起こすというとき、具体的には仏法僧の三宝への帰依(三帰)として現れる。三帰が現れたときに、三聚浄戒に進む。これは、三宝への帰依は、同時的に戒の実践へと繋がるけれども、我々が受けているのは菩薩戒であり、菩薩戒の基本として三聚浄戒があるためである。

そして、三聚浄戒に続いて十重禁戒が成立する。これは特に、三聚浄戒の「摂律儀戒」に於いて、「十重禁戒」が配されて理解されることが多い。無論、他の理解の仕方もある。指月禅師の場合はどうだろうか?本書「戒義」項に於いて、以下のように示す。

其れ止悪・作善・利物、各同器たるものを聚す、故にこれを三聚と謂う。諸毘尼尽く此に摂す。然るに是れ、其の総括、只だ大綱なるのみ。彼の戒相に於いては、未だ具に列開せず。故に衆目を布いて、十戒を説く。
    同上、同上・240頁上段


ここから分かるのは、いわゆる「摂律儀戒」のみからの展開ではなくて、三聚浄戒全体に、諸毘尼を摂すると考えているけれども、これは総括・大綱であるから、具体的な戒相として十戒が説かれた、という関係に理解されている。

一方で、今度は十戒から考えてみると、その形の根源は三聚浄戒にあるし、三聚浄戒の本質は三帰戒として会得されねばならないという。この向上・向下として両面から理解されているのが、指月禅師の十六条戒の組織である。

そして、このような「次の不次・不次の次」でもって毘盧遮那仏から釈迦牟尼仏は伝え、釈迦牟尼仏から歴代の祖師も伝え、その祖師の教えに順って今の我々も受け嗣いでいくべきだとし、端的にそれを「伝脈」と呼ぶとしているのである。非常に分かりやすい教えであるといえる。

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