そもそも、仏教における供養や布施については、色々と誤解もされているし、難しい点もある。例えば、道元禅師には以下の一節が知られている。
我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の実なるべきなり。
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
布施というと、自分の財産から、と思ってしまうが、道元禅師は自分の物ではないものでも布施をしてはダメだという話にはならないとしており、しかも、布施の内容の軽さなどは嫌われず、その効果(功徳)は真実だと述べたのである。ちょっとこの辺を前提に、今日の話を見て貰いたい。
◎問ふ、〈中略〉貧窮にして此の如き大供養を営みたらば、忽ちに身代をも潰すに至るべし、是の樣にしても父母祖先の祭りをば為すべきものなるか〈中略〉斯くの通りに鄭重を竭さざれば、其功徳尠なきや、若し然らば末代の者には到底及ばざることなり、去れば貧窮なる仏弟子、及び仏教信徒は畢竟如何にして孝順の道を履むべきや
○答ふ、そは各々分に随ふて可なり、何ぞ夫れ供物の多少にかゝはらむ、然れども成る可くは慳貪の心を離れ、力の及ぶ限りに供養を伸ぶべきなり、若し誠を竭し法によりて行ふものあらば、何ぞ味ひの精麁によらむ、貧人は設ひ一搏の飯一掬の水にもあれ、之を供養して其威神力をたのまば、父母の精霊争でか三途の苦報をまぬかれざらむ、設ひ瓶沙大王に勝るの供養を営むとも、誠心至らざれば何の益にもならざるなり
『盆の由来』第十六問答・22~23頁
確かに、供養については大変なことをしなくてはならないと思っている人も多いかもしれないが、実際には供養や布施のあり方は、様々に説かれている。先ほどの道元禅師の教えもそうだし、『盂蘭盆経』でも、「尽く世の甘美を以て盆中に著け」なんていう表現もあるし、『妙法蓮華経』「勧持品」では「教化すべきこと難しと雖も、我等当に大忍力を起して、此の経を読誦し持説し書写し、種々に供養して身命を惜まざるべし」などとも書かれている。「身命を惜しまず」とか書かれると、どこまですれば良いのか?と思ってしまうし、「身代まで潰すのか?」という極端な発想も出てくることだろう。
そこで、高田先生の答えである。まず、明確なのは「各々分に随ふ」ということである。それは、供養というのは気持ちが大切であり、供物の多寡ではないからである。しかし、問題は、この「気持ち」ということを悪用する場合が出てくることだろう。「気持ち」というのは、供物の多寡に定量が無いことを意味している。そして、その結果「慳貪(けちな心)」という我欲が入ることになる。これは、布施の能受どちらにもあることである。特に、僧侶側はこの辺、よほど慎まなくては、社会からの信頼を失ってしまう。まぁ、「坊主丸儲け」という言葉は、現代の税制(我々坊さんは、宗教法人から給与が出ており、その給与には普通に所得税・住民税・国民年金、他が発生するため。あぁ、拙僧自身は別の職業なので、今は宗教法人からの給与が出ていない)からすれば、「ヘイトスピーチ」といって良いレベルの悪口にしかならないが、それをそう言わせた、これまでの問題蓄積がある。
何度か引用したことがあるが、檀家さんから布施を受け取る際の言葉や気持ちは、ただこの一節に限られる。
示云、学人、人の施をうけて悦ぶ事なかれ。またうけざる事なかれ。
故僧正(※栄西禅師)云、人の供養を得て悦ぶは制にたがふ。悦ばざるは檀那の心にたがふ。
是の故実は、我に供養ずるにあらず、三宝に供ずるなり。故に彼の返リ事に可云、此供養、三宝定て納受あるらん。申けがす、と可云なり。
『正法眼蔵随聞記』巻6
要するに、布施を受け取る気持ちとは僧侶の自分個人に受けたものではなくて、三宝に受けたものなのである。この「三宝」の部分、今時なら「宗教法人」と言い換えてしまって良い。実質的にそうだからだ。
さて、それで布施を行う側の問題も、結局は「慳貪」を離れることが肝心で、その時々の「力の及ぶ限り」に行うべきだという。これも全く反論の余地が無い。供養や布施は、受ける側も行う側も、自らの行為や実際の施物に対して、何ら執着心を出してはならない、そのところにこそ初めて、「等三輪空寂」の功徳が生まれるのである。
そのことを、高田先生は端的に「誠心至らざれば何の益にもならざるなり」と表現されたのである。
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