吾が祖の安居巻、「梵網経に冬安居の説有ると雖も、其の法伝わず」と謂えり。祖師、南遊の時、宋、将に亡び乱世に当たる故に、結冬、彼の地に行わざるか。
東陽徳輝謂わく、「五竺の地広し、暑寒霜嬈の気候、斉しからざるが故に、結制、四月五月十二月を以て有り。所謂、雨安居は地に因り時に随い、或いは曰く坐夏、或いは曰く坐臘の義、此に始む」。
余謂へらく、東陽謂う所の坐夏は、四月五月に係る。坐臘は十二月に係る。是れ、東陽、結制の十二月を以て知り、坐臘戒臘の義を証すると雖も、分明確定して冬安居を知らざるが故に、臘の字義通漫なり。嗚呼、一たび冬安居を失して已来より、一箇の臘字、関係する所無し。強いて道理を附す。
『面山広録』巻24「冬安居辯」、原典に従いつつ訓読
まず、面山禅師が指摘される「吾が祖の安居巻」だが、以下の一節である。
梵網経中に、冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。
『正法眼蔵』「安居」巻
しかし、この一節について、無著道忠禅師は『禅林象器箋』巻4「冬安居」項で引用はされているが、コメントが無い。よって、その評価は難しい。実際『梵網経』には「冬安居」という単語自体は見られない。そこで、面山禅師は以上の通り、道元禅師が留学していた南宋代に、冬安居が無かった可能性を指摘されている。一般的に元代の臨済僧とされる中峰明本禅師(1263~1323)には「冬安居示徒」があるが、確かに宋代の禅僧の語録には「冬安居」という語句は見られないようだ。
面山禅師はその時代に「冬安居」が無くなったことを前提に、東陽徳輝『勅修百丈清規』巻7「節臘章第八」に、「冬安居」という語句が見られないことを指摘している。『勅規』では、結制が「四月・五月・十二月」があるとしたが、面山禅師はこの「十二月」が「冬安居」に当たるはずが、東陽がそれを知らないために、「坐臘」の意義も理解出来ていないと批判している。
ただ、現段階で「坐臘」の意義について、少し不分明になってきたなぁと思っていたら、以下の文章はこの語句について説明されるらしい。よって、それは次回見ていきたい。
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