粁、また問う、「如何なるか是れ戒・定・慧」。
師(=薬山)、曰く、「貧道の遮裏、此の閑家具無し。粁、玄旨を測ること莫れ」。
『景徳伝灯録』巻14・薬山惟儼禅師章、『大正蔵』巻51・312b
「粁」というのは、当時の朗州刺史(州知事)であった李粁のことであり、その者が薬山惟儼禅師(745~828)を供応した時の問答である。知事から「戒定慧とは何か?」と聞かれた薬山は、「我が家風には、そんな無駄な物はない」と答え、知事に対しては「奥深い真理を分別知見で測るような真似をするな」とたしなめるのである。
このように、禅宗は総じて、「空思想」「頓悟」から、「三学」を否定的に扱うこともあった。そう思っていたら、以下のような一節も見出したので、内容を確認しておきたい。
戒定慧の三学とは、衆生の自性本有の物なり。修証に因らざるして得ん。唯だ諸仏・菩薩の具足するのみに非ず。一切の凡夫、悉く皆な具足す。
自性に善悪無し。持することも無く、亦た犯すことも無し。
是れ自性戒、自性に静乱無し。取も無く亦た捨も無し。
是れ自性定、自性に本と知も無く而も知らざる所も無し。
是れ自性慧、諸仏菩薩、有ることを知り故に受用することを得る。一切の凡夫、有ること知らざるが故に受用することを得ず。有ることを知り、有ることを知らず、似て、少異なり。
而も戒定慧、未だ嘗て少異ならざるなり。
「戒定慧」項、『緇門警訓』巻4
これについて、三学を肯定的に扱ったものか、否定的に扱ったものか、判断が難しいが、そもそも論としては肯定している。何故ならば、三学は衆生が本有しており、修証することなく得ているからだという。つまり、既に三学の成就を経た諸仏や菩薩のみならず、凡夫であっても広く保持していると、書いているのである。
問題はその後である。確かに、本有しているとしても、実際にそれが活用されていなければ、ただの空理空論となる。ただ、自性としての三学には、善悪などはなく、持犯も無いという。そうなると、戒と定については、説明が出来てしまっているが、問題は「慧」だなぁ、と思っていたら、これについては上記の通り「有知」と「受用」というコードを用いて、実質的な区分が付いている。
また、このコード適用のこともあって、『緇門警訓』では明らかに、三学の意義は認めているということだろう。とはいえ、最近問題にしている「戒」の問題は、結局、余り重視されていないようなので、そういう流れなのだろう。
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