つらつら日暮らし

明治五年の日本仏教界変容について

明治5年(1873)というと、日本仏教界が変容を余儀なくされたことで知られる。特に有名なのが、太政官布告百三十三号で、「肉食妻帯令」と通称される法が発布され、男性僧侶の結婚について自由化された(女性僧侶はその翌年)。しかし、他にも注目したい法令があるので、見ておきたい。

○太政官布告第六十三号 明治五年二月二十八日
従来の僧位・僧官等、永宣示を以て諸寺院より差許置候分、自今総て廃止せられ候條、此の旨相心得、各府県管内寺院へ相達すべき事。
    米村鐐次郎編『現行社寺法令類纂』明治24年、2頁


まず、江戸時代まで各宗派などに認めていた僧位・僧官について、この時をもって廃止されたのであった。現在、拙ブログでは明治時代の釈雲照律師が著した『緇門正儀』で中国での「僧位・僧官」の事例を見ているのだが、既に廃止された後で、どういうつもりだったのか?と興味を懐いている。残念ながら、現段階で当方にその答えは無いのだが、何かの折に分かるかもしれないので、問題意識のみは残しておきたい。

続いて、以下の法令も見ておきたい。

●太政官布告第九十八号 明治五年三月二十七日
神社・仏閣の地にて女人結界の場所之れ有り候処、自今廃止せられ候條、登山・参詣等勝手為るべき事。
    前掲同著、2~3頁


何と?!女人禁制の結界について、明治時代に一度、国の命令で廃止されていたわけである。これは、知らなかった。以上の内容を見てみると、神社や仏閣で、女人結界の場所が設置されていたとしても、この法令以降は廃止されるので、登山や参詣などを、女性も勝手にして良いという話なのである。

一方で、江戸時代までは法度などで、女人禁制を定めていた場合がある。

  真言宗本寺高尾山神護寺 定
一~十一条は省略
一 女人禁制之事
 附、末寺并支配之庵寺、女人寺内に止宿停止は勿論、俗縁又は檀家の妻子仏詣たりとも、寺内において酒宴遊興がましき候、停止たるべき事。
    享保七壬寅年 十一月
    文部省宗教局編『宗教制度調査資料』第12輯、大正10年


これは、江戸時代に真言宗の高尾山が享保9年(1724)に、配下の寺院に対して発した「定」であるけれども、しっかりと「女人禁制」を謳っている。なお、「附(附けたり)」を見てみると、これは寛文5年(1665)に発せられた『諸宗寺院法度』の影響を受けていることが分かる。

一 他人は勿論、親類の好これ有ると雖も、寺院坊舎に女人これを抱置すべからず、但し有来妻帯は各別なるべき事。
    『諸宗寺院法度』「条」段、分かりやすく訓読した


この『諸宗寺院法度』は、広く各宗派に適用され、いわゆる江戸時代の僧侶の結婚を、実質的に禁止した法度として知られている。この影響もあって、高尾山の定に繋がったのである。もちろん、女人禁制という考えは、江戸時代よりもずっと前からあるものだが、江戸時代に入り、「統制」が取れた段階で、更に徹底されたと見た方が良い。

しかし、それを明治政府は廃止した。先ほどの法令そのものからは理由までは分からない。ただし、思うこととしては、宗教性の低減に繋がる何かがあったものだと思う。そういえば、同じ「明治五年」には、以下の法令も出た。

○太政官布告第百七十五号 明治五年六月十二日
伊勢神宮を始め、諸神社、自今、祭典の節たりとも、僧尼の参詣、苦しからざる候事。

伊勢神宮が、僧侶の参詣を拒んでいたことは有名で、それこそ、夢窓疎石国師なども『夢中問答』で書くほどだが、その禁止も撤廃された。これは、僧侶の宗教性(要するに、「否定」という形で行われていた特別扱いをしない)を否定したということになりそうだが、一方で、神社側はこの辺をどう思っていたのだろうか?先ほどの、女人禁制は、仏閣のみならず神社も停止されている。

もしかすると、この辺から明治期に於ける近代化の、或る種の側面が見えてくるのかもしれない。

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