三八 又云、如来の禁戒をやぶれる尼法師の行水をし、身をくるしむるは、またくこれ懴悔にあらず、たゞ自業自得の因果のことわりをしるばかりなり。真実の懴悔は。名号他力の懴悔なり。故に、「念念称名常懴悔」と釈せり。自力我執の心をもて懴悔を立べからず。
『一遍上人語録』巻下、岩波文庫本93頁
ここで、一遍上人が語っていることとは、懴悔の基準をどこに置くか?という話である。通常であれば、発露白仏或いは白僧することで、それが実現されると思っている。ところが、上記の一節からは、行水などでも懴悔が出来ると考える場合があったとされている。これは、少なくとも仏典に掲載される正しき方法というよりは、日本ならではの方法のようにも思える。水自体を清浄なものとみなし、その上で行水を通して、自らを清浄ならしめる働きがあるように思えるためである。
ところが、一遍上人はこのように行水で身を苦しめても、それは懴悔にはならず、自業自得の因果の道理を知るばかりだという。つまりは、清浄になるという本来の目的が果たせないといっていることになるだろう。
そこで、示されている真実の懴悔は?というと、名号他力の懴悔であるという。つまり、「南無阿弥陀仏」という名号自体が、懴悔だということになるだろう。
なお、一遍上人はそうなる典拠の文脈として、「念念称名常懴悔(念念の称名常に懴悔す)」としているが、これは、中国浄土教の善導和尚『般舟讃』からの引用である。とはいえ、その後も、他の浄土教祖師方が、この一句を引用されるので、一遍聖人が用いた実際の典拠自体は分からないけれども、少なくとも、善導和尚に遡ることには間違いない。
それで、念念の称名が、常の懴悔になるのはどうしてであろうか?少し考えてみると、一遍上人の場合、名号を唱えているその行者自身が名号そのものとなるわけで、そうであれば清浄になり、懴悔になるというのはその通りである。
この辺が、もっとも大事なところかと思われ、そうなると、そもそも懴悔以前に持戒そのものでもあるのではないか?と思ったが、それはまた、別の文脈なども学びながら検討してみたい。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事