拙僧の想いはここまで進んだが、これは道元禅師の教えを見るに付け混乱に変わったのである。確かに、仏と祖師を分けること、これ自体は特記すべき優位性がない考えだが、しかし用いなくて良いとも限らないし、晩年の道元禅師は「仏祖一体論」から「祖師の自覚」へと論点を変更したように思われる。
しかあれば六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。
『正法眼蔵』「仏性」巻
この一文が何故道元禅師独自の「仏祖一体論」になる理由だが、ここで引用されている「明明百草頭、明明仏祖意」は龐居士の言葉であるとされ、しかも本来は「明明百草頭、明明祖師意」なのである。しかし道元禅師は祖師を敢えて「仏祖」と書き直した。こうすることで、祖仏一体を明らかにしようとしたためである。そして、祖仏一体は以下のような指摘からもさらに明らかとなっていく。
六祖、曹渓に、あるとき衆にしめしていはく、七仏より慧能にいたるにまで四十祖あり、慧能より七仏にいたるに四十祖あり。
この道理、あきらかに仏祖正嗣の宗旨なり。いはゆる七仏は、過去荘厳劫に出現せるもあり、現在賢劫に出現せるもあり。しかあるに、四十祖の面授をつらぬるは、仏道なり、仏嗣なり。
しかあればすなはち、六祖より向上して七仏にいたれば、四十祖の仏嗣あり。七仏より向上して六祖にいたるに、四十仏の仏嗣なるべし。仏道祖道、かくのごとし。証契にあらず、仏祖にあらざれば、仏智慧にあらず、祖究尽にあらず。仏智慧にあらざれば、仏信受なし、祖究尽にあらざれば、祖証契せず。しばらく四十祖といふは、近をかつがつ挙するなり。
『正法眼蔵』「嗣書」巻
ここで指摘された六祖慧能禅師の言葉とは、どうやら出典未詳らしく、道元禅師が中国で学んできた際に見聞したものではないかとの指摘もあるようだが、道元禅師は他の巻でも引用しているので、何かしらの典拠があったものと推測できる。
曹渓古仏、あるとき衆にしめしていはく、慧能より七仏にいたるまで四十祖あり。この道を参究するに、七仏より慧能にいたるまで四十仏なり。仏仏祖祖を算数するには、かくのごとく算数するなり。かくのごとく算数すれば、七仏は七祖なり、三十三祖は三十三仏なり。曹渓の宗旨、かくのごとし。これ正嫡の仏訓なり。正伝の嫡嗣のみ、その算数の法を正伝す。
『正法眼蔵』「仏道」巻
「嗣書」巻ほどの長い引用があるわけではないのだが、全く同じ文章を用いており、しかも、その後の道元禅師の言葉は、仏祖を分けて考えないことこそ「仏訓」であるとしている。この思想的な背景を考えてみると、道元禅師は坐禅及び一連の叢林修行をしている当体こそ仏の悟りであり、その意味では仏と祖師とを分ける積極的理由はないことになる。
しかし、先に挙げたような道元禅師の説示も、晩年に至ると変化を見せるようになる。書かれた正確な時期は分からないが晩年に編まれたという12巻本『正法眼蔵』に含まれる巻には以下のような祖師の定義も見える。
西天二十八祖・唐土六祖等、および諸大祖師は、これ菩薩なり、ほとけにあらず、声聞・辟支仏等にあらず。いまのよにある参学の輩、菩薩なり、声聞にあらず、といふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。
『正法眼蔵』「発菩提心」巻
このように、祖師は菩薩であって、仏では無いと明確に分けておられる。いわゆる「仏祖各別論」である。更には以下の一節も見ておきたい。
これ阿含の四馬なり。仏法を参学するとき、かならず学するところなり。真善知識として人中天上に出現し、ほとけのつかひとして祖師なるは、かならずこれを参学しきたりて、学者のために伝授するなり、しらざるは人天の善知識にあらず。
『正法眼蔵』「四馬」巻
ここでは、祖師が「ほとけのつかひ」であるとされて、明確に仏の下に置かれるようになる。特に晩年の道元禅師はそれまでの中国祖師の語録を中心に書かれていた『正法眼蔵』を『阿含経』などの古い時代の経典を引用するようになるが、そのためにいったんは否定された教学仏教的な観念が入り込んでいる。
それで、道元禅師が仏祖一体論から、各別論に到った理由として、改めて「成仏」の必要を説いた可能性などを考えているが、関連して【道元禅師の誓願と未来成仏論】も見ていただければと思う。
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