つらつら日暮らし

無住道曉『沙石集』の紹介(11a)

前回の【(10γ)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、今回紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。今回は「二五 先世房の事」を使ってみたいと思います。掻い摘んでお話しをしますと、これは、自分に起きることを全て「前世の事」とのみ嘆じて、喜怒哀楽の感情を見せなかった者のお話しから転じて、無住が過去現在未来に渡る因果の話などをまとめた一節です。

 下総国(現在の千葉県北部)に、先世房という者がいた。特に身分を持っていたわけではなく、心根は事に触れて優しい者であった。世に対して媚びることもなく、何事も「前世のこと」とのみ嘆息して、喜んだり、怒ることはなかった。
 或る時、失火で、火が出てしまったのだが、「これも前世のこと」とだけいって、騒ぎもしなかった。「どうしたのだ」として、(周りの者が)集まってきて、(先世房の)手を引いて出したのだが、「これも先世のこと」といって外に出た。万事、このように言い、振る舞っていたものだから、周りの人は「先世房」と呼んだのである。
    拙僧ヘタレ訳


・・・現代的な視点であれば、ちょっと問題があるのかもしれませんが、因果歴然の事実を推し進めると、ここまで行ってしまうのだろうとは思います。あくまでも、過去の説話として以下紹介いたします。この先世房、本名は伝わらず、生没年も伝わりません。ただ、下総国に住んでいたということのみが伝わります。

それにしても、皆さん、このような言行を見てどう思われますか?確かに、ここまで徹底できれば、苦楽は無くなりますよね。全てを、前世に原因を求めてしまえば良いので、自分では何も考える必要がありません。いや、これ、自分でそのようにあるというのなら、何の問題もないでしょう。ただ、他人に対してそれをいうのは間違っていると思います。つまり、自分であらゆる事象から解脱して、平穏無事に生きたいと願うのなら、こういう生き方は選択肢としてあり得ると思います。

ただ、場合によっては、「霊感商法」などにも繋がってしまうので、他人に対して、前世(先世)のことを担保にして、自らの意見を強制したりすることは出来ない、してはならないと思います。ただ、あらゆる世の中の様々な関係性の中に生きることが疲れてしまい、そこから本気で離脱することを願う人だけが、この「先世房」になっても良いのです。いや、なることが出来るのです。一度なってしまえば、後は二度と苦楽を得ることはありません。或る意味、本来人間が持っている、自分への責任などの一切を放棄してしまうので、一時的な「逃げ」のためにこの生き方が選択可能だとも思えません。

次回以降の連載記事で、この「先世房」に因んだものが沢山出て来ますけれども、どれもが、「なるほど、このように生きられたら楽なのかもしれないが、ちょっと違和感があるな」というものになっています。この「違和感」、普通に生きていきたい人は、大切にすべきです。拙僧は、それをこそ「常識」と呼ぶのに躊躇することはありません。

一方で、そういう「常識」が通用しなくなる事態に直面することもあります。その時、我々自身がどう翻身すべきなのか?「先世房」はその採り得る可能性の1つでしょう。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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