つらつら日暮らし

『大智度論』に説かれる「十種戒」について

以前、【『華厳経』に説く「十種戒」について】でも指摘したことがあったが、ちょっと気になる一節があったので、見ておきたい。

 大論の戒品、十種戒を列ぬ。
 一つには不欠、二つには不破、三つには不穿、四つには不雑、五つには随道、六つには無著、七つには智所讃、八つには自在、九つには随定、十つには具足なり。義、此の十を推す。
 不欠とは、性戒の性重清浄を持するなり。明珠を護るが如し。若し毀犯すれば、器の已に缺するが如し。仏法の辺人なり。
 不破とは、十三を持して、破損有ること無きなり。
 不穿とは、波夜提等なり。若し犯す所有れば、器の穿漏するが如し。道を受くるに堪えず。
 不雑とは、定共戒を持するなり。律儀を持すると雖も、破戒を念ずる事なり。之を名けて雑と為す。定共に心を持し欲念起こらず。大経に云わく、言語嘲調。壁外釧声し、男女相追い、皆な浄戒を汚すなり。
 随道とは、諦理に随順して能く見惑を破るなり。
 無著とは、真を見て聖と成る。惟惑を思惟するに於いて染著する所無し。此れ両つながら真諦の持戒に約すなり。
 智所讃戒・自在戒とは、菩薩の化他、仏の讃ずる所と為すに約す。世間中に於いて自在を得る。此れ俗諦の論に約して持戒するなり。
 随定・具足の両戒、即ち是れ首楞厳に随い、滅定を起こさず、諸もろの威儀を現ず。十法界に像を示し衆生を導利し、威儀を起動すると雖も、任運に常浄たり。故に随定戒と名づく。前来の諸戒、律儀防止なれば不具足と名づく。中道の戒、無戒にして備えざれば、故に具足と名づく。中道の慧を用いて遍ねく諸法に入れば、故に具足と名づく。此れは是れ中道の第一義諦戒を持するなり。
    天台智顗『菩薩戒義疏』巻上


これは、中国での『梵網経』の註釈書になるのだが、以上の通り、『大論(大智度論)』に「十種戒」があるという。その並べ方は、冒頭で書いてある通りで、後はその意義を簡単に解説しているものになる。

ところで、気になるのは、この典拠であるが、『大智度論』巻22「釈初品中八念義第三十六之余」に見られるようだが、よくよく見てみると、「行者、清浄戒、不欠戒、不破戒、不穿戒、不雑戒、自在戒、不著戒、智者所讃戒を念ず」とあって、「十種戒」では無く、八戒であり、しかも、共通しているのは七戒分となっている。「随道・随定・具足」が『大智度論』の同箇所には無いことになる。

そう思っていたら、どうも、上記文献で参照されたのは、全く別の場所だったようである。

須菩提よ、菩薩摩訶薩、云何が応に念戒を修すべきや。須菩提よ、菩薩摩訶薩初発意従り已来、応に聖戒、無欠戒、無隙戒、無瑕戒、無濁戒、無著戒、自在戒、智者所讃戒、具足戒、随定戒を念ずべし。応に是の戒を念じて、性の有る所無く、乃至、少許も念ずること無し、何に況んや念戒をや。
    『大智度論』巻87「釈次第学品第七十五之余」


・・・いや、ここも少しずつ内容が違っており、しかも、「随道戒」についての指摘が無い。文言としてであれば、今、一般的に見ることが可能な『大智度論』では、「随道戒」は無いようである(「随道」という概念は示されているが、戒となっていない)。よって、想像をたくましくすれば、智顗が『大智度論』の内容を斟酌しつつ、「十種戒」としてまとめたということなのだろうか。

ところで、『大智度論』では念戒について、実質的にはそれを否定するという考えについて、もしかすると、智顗では中道や無戒等の見解などを通して「具足戒」の空観的解釈を示していることが特徴だろうか。

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