つらつら日暮らし

『長阿含経』に見える「四大教法」について(1)

本当にかなり前に、【「四大教示」とは何ぞや?】という記事をアップした。その際、伝統的な仏教に於ける、経や律などの真偽の判断基準について採り上げたわけである。それで、この記事では、「四大教示」の典拠として、北伝の阿含部からも「四大教法」として見出せることを、一応書いた。ところが、その内容を書いた記事を、全くアップしていないことに気付いた・・・

それで、とりあえずその文章を確認してみたのだが、そこまでやって思い出した。そう、この「四大教法」は長いのである(辞書的な記述だと短いけど、実際の教えは、という話)。とりあえず、頑張って訓読してみたが、とにかく長いので、1つずつ採り上げて見ることにした。第一は以下の通りである。

 仏、諸もろの比丘に告ぐ、「当に汝等のために四大教法を説く、諦聴せよ、諦聴せよ、善く之を思念すべし」。
 諸もろの比丘言わく、「唯だ然るべし、世尊よ、願楽して聞かんと欲す」。
 何を謂いて四と為すや、若しくは比丘有りて是の如き言を作す、「諸賢よ、我れは彼村、彼城、彼国に於いて,躬して仏より聞き、躬して是の教えを受く」と。
 其れより聞く者は、応ぜず信ぜず、亦た応に毀さざるべし。当に諸経に於いて其の虚実を推すべし、律に依り、法に依りて其の本末を究めよ。若しくは其の言う所、経に非ず、律に非ず、法に非ざれば、当に彼に語りて言うべし、「仏、此れを説かず、汝、謬りて受くや。所以は然らば、我れ諸経に依り、律に依り、法に依る。汝の先の言う所、法と相違す。賢士よ、汝、受持すること莫れ、人の為に説くこと莫れ、当に之を捐捨すべし」。
 若しくは其の言う所、経に依り、律に律り、法に依るものならば、当に彼に語りて言うべし、「汝の言う所、是れ真の仏の所説なり、所以は然らば、我れ諸経に依り、律に依り、法に依る。汝、先の言う所、法と相応す。賢士よ、汝、当に受持して、広く人の為に説くべし。慎んで捐捨すること勿れ」。
 此れを第一大教法と為すなり。
    『長阿含経』巻3「遊行経第二中」


まぁ、以前の記事で見た内容と同じであるが、辞書的記述では無くて、釈尊による通常の説法なので、例示もあり、非常に分かりやすいといえる。

以上は、「四大教法」の内の「第一大教法」である。釈尊は、「四大教法」を善く聞いて、思念するように比丘達に告げている。そういえば、この出典は『遊行経』であるから、釈尊の遺言の1つという位置付けも可能である。他の涅槃経系に、同じものが見えるのかどうか、「四大教法」という四字では、漢訳には無いようだが、探ってみたいところではある。

さて、第一では何を言っているかというと、或る比丘が自分が、釈尊から、このような教えを聞いたのだ、と申し出てきた時の対応法である。それで、他の比丘達はまず、その者のいうことを、応じることも無く、信じることも無く、毀すことも無く、まずは淡々と聞くべきだという。

その上で、自分たちが受持している諸経、律、法に於いてその虚実を推察し、その申し出てきた比丘の言うことが、それらの経、律、法に依拠していなければ、「仏は、そなたが申し出てきた教えを説いていない。そなたは、誤って受けてしまったようだ。何故ならば、我等はブッダによる経、律、法に依拠しているから分かるが、そなたが言うことは、法と相違している。賢き者よ、そなたはその教えを他の者に説いてはならない。また、すぐに捨て去るべきだ」と教えるべきだという。

一方で、それらに契っていた時には、「そなたが申し出てきた教えは、まさに仏の真実の教えである。何故ならば、我等はブッダによる経、律、法に依拠しているから分かるが、そなたが言うことは、法に相応している。賢き者よ、そなたはその教えを受持し、広く人のために説くべきである。決して捨て去るようなことをしてはならない」と説くべきだという。

実は、この後の教えも、基本的には同じことなのだが、少しずつ展開してもいるので、その詳細を見ていきたい。今日はまずここまでである。

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