つらつら日暮らし

今日は山の日(令和4年度版)

今日は「山の日」である。この日は、2014年に制定されており、祝日としては新しいものである。そして、祝日について定めた祝日法を見ていくと、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨であると分かる。とはいえ、由来などは書いていないため、まぁ、何となく「お盆休み」の日付を増やす方便だったのでは?という感じがしてしまう。

ということで、今日は「山」に関する教えを見ていきたいと思うのだが、仏教で「山」といえば、やはり「須弥山」であろう。その「須弥山」について、或る偈文が伝わっている。

 故に古の云わく、
 信施の一粒米、重きこと須弥山の如し、
 若し人道を了ぜざれば、披毛帯角して還らん。
    『仏祖三経指南』


以上の通りなのだが、この偈文、余り古い文献には出てこない。参考までに、上記のも中国の禅僧・為霖道霈禅師(1615~1702)に因む文献に出てくるものである。ただ、注意すべきは、この段階で「古の云わく」とある通り、伝統的な表現だったことを示すので、何らかの典拠なり、伝承なりはあったと思うのだが、当方の能力では探し切れていない、ということである。

なお、「一粒の米」を題材にした禅問答は幾つかあるようだが、個人的に記憶しているのは、以下の一節である。

 石霜、潙山にて米頭と為りて抵す。
 一日、米を篩う次いで、師云わく、施主の物、抛散すること莫れ。
 石霜云く、抛散せず。
 師、地上に一粒を拾得して云く、汝、抛散せずと道う、這箇は是れ甚麼。
 石霜、対うること無し。
 師、又た云わく、這の一粒を軽んずること莫れ。百千粒は、尽く這の一粒より生ず。
 石霜云わく、百千粒、這の一粒より生ず。未審、這の一粒、甚麼の処より生ずるや。
 師、呵呵大笑して方丈に帰る。
    『潭州潙山霊祐禅師語録』


これは、中国禅宗の潙山霊祐禅師(771~853)と石霜慶緒禅師による問答であり、米を篩っていた石霜禅師の振る舞いについて、潙山禅師が指導している中で、「一粒の米」について議論している。ここからは、その米はとても大事なものであって、軽んじることがあってはならないと指摘されている。内容は、当方で解説しなくても上記の訓読で理解していただけると思うので、ここまでにしておきたい。

ところで、「一粒の米」について、禅林の中で議論する状況があったことを確認したのだが、一粒の重さと「須弥山」を比較した事例について、わずかに見出すことが出来たので、見てみたい。

 廬陵の一粒米、価の重きこと須弥に過ぐ、
 須弥尚お砕くべし、此の粒壊する時無し。


これは、中国明代の禅僧・憨山徳清禅師(1546~1623)が詠んだ偈文とのことだが、最初に上げた「信施の一粒米」と極めて類似している様子が理解できるだろう。なお、「廬陵の一粒米」とは、一般的には「青原(清源)米価」と呼ばれる公案である。

 挙す。
 僧、清源に問う、如何なるか是れ、仏法の大意。
 源云わく、廬陵の米、作麼の価ぞ。
    『宏智禅師広録』巻2


これは、中国禅宗の青原行思禅師に対する問答だとされる(他の文献では、「清源」が「思」になる場合がある)。ここでも、仏法の大意として、廬陵という地方の米価が提示されている。問題は、価値について特定の見解を挙げているわけではなく、あくまでも、「どれくらいか?」と尋ねている。いや、「どれくらい」という疑問に置くことで、かえって無分別なる「価格」を示しているのである。

その考えからすれば、軽重に拘泥することはない。当然に、須弥山の如き重さかどうかも分からない。ただし、須弥山の如き重さになりうることもあるとはいえる。今日は山の日だが、登山等に行かれる人は、是非、ご注意いただきながら楽しんでいただければと思う。山は、大聖の住居ともいうので、六根を清浄にする営みとしても良いだろう。

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