つらつら日暮らし

仏教美学の悲願

インドの釈尊の発想は、ちょっと違うようにも思うけど、少なくとも大乗仏教に於いては現実の相対的な価値観というのは、それぞれに解体されていくように思います。その上で、「美」を考えるとどうなるのか?以下のような指摘を見ていきましょう。

つらつらその美を省みると、それが不二美の不思議を示していることが分る。不二とは何か。常識では、美と醜との二があって、美が醜に勝つとき、美の浄土が具現されると、考えられる。だが、そうではなくして、美醜相分れ、相対する間は、誰もが美の浄土に着く望みはない。ただ、優れた力量のある天才だけが、そんな境地に到達し得るに過ぎまい。
    柳宗悦『美の法門』岩波文庫、22頁


ここで、柳宗悦が指摘する「その美」とは、エジプトで作られていた生地のコプトについてであります。柳は、これはその時代には様々な作る者の能力等に違いがあったかもしれないけれども、実際に出来上がった物は、そのような相対的な価値観を超えて、それそのものに内在する美を十分に発揮していると評価するのです。そして、その美とは、上に引用したように「不二」であるといいます。美と醜とが対立関係になく、ただの「美」であるというのです。そしてその時、美の浄土が具現されるといいます。我々は、醜い物との比較の上で、美があると考えています。しかし、そのような美は限定的、階級的であります。また、貴族趣味的であるともいます。しかし、庶民の生活の上では、そのような相対的美は、趣味以上の物としては追究されないかもしれません。しかし、美的生活は成就します。その生活を柳は見出しました。

今の時代は誤謬だらけである。それは人間の分別、作為の弊なのである。不二を離れるからの悲劇である。誤りがかくも多いから、天才が要る。特別に優れた個人が要る。ここで仏教美学の悲願は、かかる天才をすら必要としないで、誰もがそのままで救われる無謬の道を説こうとすることである。転んでもなおかつ花の中にいる世界を現成しようとするにある。ここで一切の人々が深く美と結縁される。だから凡夫も成仏する。
    前掲同著、23頁


この誤謬は、相対分別を推し進め、世界に無用な誤謬を見出し、誤謬を重ねていくことからますます酷くなるとしています。それを、柳は「作為の弊」と表現しているわけです。自分たちの見方が悪くて、世の中についての見方の誤りが進んでいるわけですが、進んだ結果、その当の本人には何のコントロールも出来なくなり、結果「何とかしてくれる天才」などの登場を待つようになります。優れたリーダーの不在は、逆に考えればこの世界の安穏を意味しています。優れたリーダーの登場、及びその登場への渇望はこの世界の不安を意味しています。ただし、不安とは客体にあるのではなくて、主体にあることを尻、その上で日常に徹すれば、そこには天才も不要であると出来ましょう。病が進んで特効薬を飲むよりも、特効薬など要らない境地に入ることこそ肝心だというと分かりやすいでしょうか。

先ほど、「内在する美」について指摘しましたが、柳はそれを次のように指摘します。

さて、一切の人々が美と結縁出来るという事実を、別の側から見れば、一切の人々の中に、本来かかる性質が内在していることを意味しよう。つまり誰にも美仏性が備わっている事を示そう。「来来山河草木悉是仏性」と経にはいうが、一切の人間にかかる仏性が用意されているのである。
    前掲同著、23頁


柳が指摘する「経」が何かは、ちょっと調べきれませんでしたので、ご存じの方はご教授下さい。それはさておき、柳は人々の内に、美仏性を見出して、そしてまた対象となる物の中にも美仏性を見出し、そして、我々はあらゆる物に「美」を感じるとされています。あくまでもこの美は、美醜という相対には依らない美です。ただ、そのものが美であると直観されるわけです。我々は、極限を超えた美を見たとき、ただ嘆息するように「美しい」と思う事があります。いや、それを自覚するほどもないほどに、その情感に揺り動かされます。しかし、そのような高揚を得ることは、美的追究の結果の果てにあるのであり、柳が指摘する状況とも違っています。むしろ自然に、ただ自然に日常の生活が、そのまま美であるのです。まさに、「美の彼岸」であるといえます。柳は「悲願」だといっていますけれども。このように、今はお彼岸です。そこで、その彼岸に悲願をかけて記事にしてみました・・・

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> 九郎 さん

> ずっと以前、仏教のことをあらためて学びたいと志した当初、柳宗悦の著書はよく読みました。天才に頼らない、作為から離れた美の実例として、確か柳は名もない民衆の手による実用品、民芸の美を見出したのでしたね。

そうですね。仰る通りです。拙僧も、ずいぶんその著作には目を通しました。

> また、「不二」というテーマでは岩波文庫の「南無阿弥陀仏」も大好きな本でした。中世の浄土信仰が法然・親鸞・一遍と続く流れの中で、より純化されていく過程の解説が素晴らしかったです。

柳氏はご指摘の様な、浄土信仰の連続性を謳いますね。まぁ、学者によっては違う見解もあるようですので、柳の見方は、柳の見方ということで考えています。そのことを記事に書いたことがありますので、よろしければご参照ください。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/2e178e117c8a5fe9d2d42ae902912beb
九郎
http://en-nichi.seesaa.net/
ずっと以前、仏教のことをあらためて学びたいと志した当初、柳宗悦の著書はよく読みました。天才に頼らない、作為から離れた美の実例として、確か柳は名もない民衆の手による実用品、民芸の美を見出したのでしたね。
また、「不二」というテーマでは岩波文庫の「南無阿弥陀仏」も大好きな本でした。中世の浄土信仰が法然・親鸞・一遍と続く流れの中で、より純化されていく過程の解説が素晴らしかったです。
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