過去遠々のむかしより 今日今時にいたるまで
おもひと思ふ事はみな 叶はねばこそかなしけれ
『別願和讃』って、だいたい21箇くらいの和讃の集まりで、一つ一つバラバラにするのも、ちょっとおかしいような気もしますけれども、とりあえず、4句くらいで1つの意味のつながりになりますから、それで見ていこうと思います。さて、今日採り上げたものですけれども、我々は自分の「想い」というものが、どれほどに「空想」であると分かっていても、それが叶わなかったり、否定されたりすると悲しむものですが、或る意味、この悲しみが、我々自身の誤解への執着の元となり、無明となるわけです。
聖道浄土の法門を 悟とさとる人はみな
生死の妄念つきづじて 輪回の業とぞなりにける
悟りとは、それを客体として把握することは出来ないのであり、もし、悟りを悟りとして悟ってしまった人は、常に生死の原因が尽きることは無く、むしろ「オレは悟った」という想いによって、次の輪廻の業を造り出してしまうのです。或いは釈尊の時代から遙かに過ぎて、このような悟りを求める宗教に意味がないと判断しておられるのでしょう。悟りとは、まさに邪見を作り上げる振る舞いとなり、例えばこのような邪見の者が輪廻するとなると、次のような結果になるとされています。
六に焦熱地獄といふは、大叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。獄卒、罪人を捉えて熱鉄の地の上に臥せ、あるいは仰むけ、あるいは覆せて、頭より足に至るまで、大きなる熱鉄の棒をもつて、あるいは打ち、あるいは築きて、肉摶のごとくならしむ。〈中略〉殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見のもの、このなかに堕つ。
恵心僧都源信『往生要集(上)』、『浄土真宗聖典(七祖篇)』810頁
邪見の典型例は、誤って仏法を弁えることであり、最大の誤りは、常と無常との見解を逆さまに理解することであるといえます。他にも、多くの誤りがあるとされていますが、この生死の元を勘違いし、輪廻の業を造ってしまうこともまた、邪見の甚だしき者だといえます。まさに、一遍上人が仰るように「地獄鬼畜のくるしみは、いとへども又受やすし」(『別願和讃』)ということですね。
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tenjin95
無門
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