仏殿を立てず、唯だ法堂を搆うるのみなるは、仏祖の親受を表して、当代の尊と為すなり。
入門して仏殿無し。陞座して虚堂有り。
即ち此れ心印を伝え、当に知るべし是れ法王なり。
『禅苑清規』巻10「百丈規縄頌」
これは、『百丈清規』の理念を表現したとされる『禅門規式』と、禅宗の修行理念に対して、頌を付したのが『百丈規縄頌』である。その中に、法堂の意義について以上のように表現している。意味としては、百丈懐海禅師が目指した禅宗叢林は、仏殿を立てずに、ただ法堂のみを建てたという。それは、禅宗叢林の住持とは、大法を親受した仏祖であり、まさしく仏陀と同じくらいにある当代の尊師であるという。
つまり、仏陀とは、仏殿にて拝む対象としてあるのでは無くて、自らが法を担い、現前することが禅宗の理念だったといえる。
だからこそ、頌はその意義を良く伝えており、門から入っても仏殿が無いという。また、法堂の法座に昇って法を説くけれども、その法が説かれる現場では、一応現前している殿堂は虚しいだけだという。それは、殿堂があって法が説かれるのでは無く、法を説いているという事実のみが重要だという主張である。
その主張が成り立つ意味は、住持とは仏祖の心印を伝えたものであり、まさにその者こそが「法王」だからである。「法王」とは、仏陀の尊称だと理解すべきであり、『妙法蓮華経』の中では「破有法王」(薬草喩品)などとも呼ばれる。これは、「二十五有」というこの世界の種々の衆生について、その迷妄を破る法を説く存在であることをいう。
良く、禅宗は「不立文字」であるとは言われるが、実際には斯様なまでに「説法」を重視した。そしてそれは、救済の宗教としての性格を禅宗が持っていたことを明示しており、かつ、禅僧が生身の仏陀である自覚を伴っていたはずなのである。
しかあればすなはち、全彰の参学は、乞眼睛なり。雲堂の弁道する法堂に上参し、寝堂に入室する、乞眼睛なり。
『正法眼蔵』「眼睛」巻
そういえば、「法堂」について、道元禅師は「乞眼睛」という教えから、以上のように示しておられる。「眼睛」とは「眼」のことだが、人間にとって大事なものであり、仏法を例える語句である。「眼睛」巻では、上記一節を、中国曹洞宗の洞山良价禅師の参学として示されるが、大事なのは「全彰(全てがあらわとなる)」の参学とは、「乞眼睛」であり、その際、雲堂(僧堂)では坐禅弁道し、法堂では師の説法に学び、師がいる寝堂では入室して仏法そのものを頂戴するのである。
法堂とは、仏法が明示される場所であると同時に、ただの空虚な空間では無い。師の道得が満ち満ちた場所なのである。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事